何とかしてあげたい、支えたいと思う人がいる。その気持ちを理解できない、理解する能力が低下してきている状態のお年寄りがいる。それを、離れている家族に伝えるのは難しい。そうかといって、家族に黙って世話を焼いて、もっと状態が悪くなったとき、世話をした人が責められることが世間にはよくある。
 身内というのは、いろいろ確執があったり、お金が絡んでいたりと他人よりやっかいなこともある。私がかかわっている高齢者は、在日本とこちらにいる兄弟に連絡をつけられて、やれやれと思ったのも束の間、施設から電話があった。電話番号を知らせていないのになぜ? と思って尋ねると、「連絡はこの電話にと、お兄さんから番号をもらった」と返事。三者の間を取り持つ役目に徹しようと心に決めた。三者の間の出来事は日本の弟にも知らせている。法的な書類は作成していないので、連絡係りのようなもの。家族も今のところ、状況を理解していてくれていると思っている。だから、これをしておいた方がいい、ああしたらなどと考えているようだが、本人とは過去のことが尾を引いてか、会話にならない。
 前述のお年よりは、第三者がやきもきしているが、身内が状況を理解しなくて手出しができないという大変な状況。ここはお年寄りでも最後の最後まで独り暮らしでがんばる。それで、交流が密でない身内が状態を把握するのは難しい。
 日本語に訳された本を読んでは、意味が通じない文章に辟易し、どうしてこんな訳になるのだろうかと思うことがある。特に日系人の歴史や生活に関するものに思う。LAで見聞したことが多くなると、日本にいる人との距離はちょっと広がっていくのかもしれないなどと思ったりする。
 人と人は少し間が離れているくらいでちょうどいい関係を保てると思っているが、その距離が難しい。くっつき過ぎも離れ過ぎもよくない。距離を左右するのは、気持ちだけでなく、物理的環境や時間の経過など多くの要素が絡み合う。いろいろな場面で、距離の加減が難しいと思った昨今だった。【大石克子】

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