サインの確認など試合前の最後のバッテリーの打ち合わせ。右端が二村さん
 ドジャースの二村健次さんは、2008年から昨シーズンまで投げた黒田博樹投手に4年間ピタリと付き、活躍をサポートした。本業の通訳ばかりか、身の回りの世話など何でもこなし、チームの地区優勝、ナ・リーグ優勝決定戦進出には二村さんの陰の貢献がある。日英語に加え、スペイン語も操りラテン系選手の心を掴み、チームの一員となって溶け込んだ。クラブハウスでの4年間の「修業」は昨年をもって区切りをつけ、「家族のように接して、自分を大きく成長させてくれ、一生忘れない」という選手、監督、コーチへの恩を胸に、フロント入りする。2012年を飛躍の年ととらえ「野球で日本、米国、南米の懸け橋になる」という将来の目標を定め、気持ちを新たにチャレンジする。【文・写真=永田 潤】

特技のトリリンガル
ラテン選手と心を通わせる

 大リーグで球団職員として職に就くには、マイナー・リーグでの下積みや他のスポーツ界で職歴を積むものであるが、トリリンガルという秀でた特技に助けられ晴れて採用された。
 ドジャーファンとして育った野球少年だった。そして、前年まで球場に行って応援した憧れのスター選手が目の前にいる。ガルシアパーラ、ケント、ペニー、ロウ、ケンプ、イーシア、ブロクストン、ビリングスリー、みんな一流選手ばかりだ。「夢のよう。信じられない。話すこともできる」。憧れたマダックス、ラミレス、トーリ監督、マッティングリー(ベンチコーチで現ドジャース監督)が加入。「雲の上の人ばかりで圧倒されっぱなしだった」

2008年の地区シリーズの試合後の記者会見で、好投した黒田(右)の通訳を務める二村さん
 春季トレーニングでは、ガルシアパーラなどキャッチボールの相手をしたこともあった。「ドジャースの声」として有名な実況のビン・スカーリー。渡米した11歳の時は「英語の『え』の字も分からず、スカーリーさんの名調子を聞いて英語を覚えた」。その「恩人」とも話すことができた。往年の名選手、監督にもお目にかかれた。ラソーダ、サックス、ゲレーロ、ハーシュハイザー、フランクリン、バレンゼーラなどなど。「僕にとってみんな雲上人」
 本来は、黒田と斎藤のための日本語通訳。だが、「活躍してもスペイン語しか話せないから地元の記者はインタビューしてくれない。そんな状況が歯がゆくて、彼らの思いを伝えたかった」と、通訳を買って出た。「日本から来て英語に苦労した僕だからこそ、彼らの気持ちがよくわかった」
 ラテン系選手と心を通わせ、時には身の上話にものった。「接しようとすると、気持ちを開き、応えてくれる」「素朴で、謙虚で、裏表がなく正直、親切で明るい。1度信頼されれば、一生信頼される」のがラテン選手の特徴。日本人の顔つきなのに、母国語で喋ってジョークを言い合えることが、気に入られたようだ。
 家族を大切にする南米出身者。そのため、選手のルーツを知るためにドミニカに赴いた。風光明媚な田舎町。選手の実家に泊めてもらい、郷土料理で歓待を受けた。LAに来た際には、お返しにすき焼きをご馳走した。

歓喜のシャンパン掛け
美酒に酔い「チームの一員」実感

 通訳の仕事は全体のわずか5パーセントに過ぎないという。残りの95パーセントは「コンシェルジュとガイド」というだけあって、何でもこなさなければならない。黒田のために他の日本人選手などから情報を聞き、遠征先での和食店や家族へのみやげ物のショッピング先などを下調べ。「選手がどれだけ野球に集中できるかの環境づくりを行うのが僕の仕事」「客観的に物事を見つめ、考え、行動する」という、大学で文化人類学を学んだことがここで生かされた。
 1年目のシーズンでチームは地区優勝を果たし、シャンパン掛けは、外から見るつもりだった。だが、選手に歓喜の渦の中に引っ張り込まれ、たっぷりと浴びた。ともに勝利の美酒に酔い「チームの一員になることができた」と実感。シャンパンファイトは、野球少年時代からの夢で、憧れのドジャースで実現でき感慨深い。また、マニー・ラミレスがチームメートのサインをボールにもらっていた。「ケンジも書いてくれ」と頼まれ、感動。また「涙が溢れ出た」

2009年に西地区を制覇し、シャンパンファイトを行った黒田(右)と二村さん
 ドジャースに入る前は、選手は大柄な態度をとると思っていた。さらに、通訳は蔑視され小間使いを覚悟していたが、実際はそうではなかった。トーリ監督とモタ・コーチから「君は僕ら家族の一員だ」と言われ、「ジーン」ときた。通訳を見下した態度で接することなく「1人の人間として見てくれた」。「一級の選手、監督、コーチのすべてが人間性も一級であり、平等に大切に扱ってくれた。とても世話になった」と感謝の念にたえない。
 チームはスタッフを含め、25から30人ほどの男たちの世界。「クラブハウスは、大リーグの独特の野球文化。選手が唯一落ち着ける『いこいの場』でありまた、試合に向けて気持ちを高ぶらせる場でもあって、各人の素顔を垣間見ることができる」。勝ち負けがはっきりした世界は、短時間の間に、さまざまなドラマが繰り広げられたと話す。
 「選手はみな、生と死の狭間で戦っている」と表現するのは、「1試合、1試合が最後の試合になるかも知れないので、命がけでプレーしている」ことが感じられるためだ。例えば運悪く、死球が急所に当たれば選手寿命が縮まるどころか、生命の危機になり得る。試合前の選手はみなプレッシャーで神経はぴりぴりしていて、精神を集中させて試合開始前に頂点に持って行くといい「戦場に向かう兵士のよう」と、例えるのもうなずける。
 メジャーでは「いかに独特の世界に順応するかが重要」。選手とは春季トレーニングから、8から9カ月間を寝食をともにし、全米の各地を転々と移動する。「家族のようで、いい面も悪い面もすべてが分かり、その人の本質が見える」ことを知り、チームワークにつながる信頼関係の重要性を思い知った。

斎藤を「恩師」と仰ぎ
黒田のプロ意識学ぶ

 ドジャースの1年目は、右も左も分からない。その時に1から教えてくれたのが、クローザーを務めていた斎藤隆投手(現ダイヤモンドバックス)だった。黒田にしなければいけないことをすべて斎藤から教わった。斎藤を「兄貴であり、恩師でもある」と傾倒。野球の専門知識から選手の特徴、選手を世話する上での心構えなどを詳しく習った。斎藤の性格は「気さくで大らか、包容力があり、人に常に気を配る」。年齢が近かったことから親友になれた。ただ、ひじのケガの診察で付き添い、医師の宣告を斎藤に知らせることが一番辛かった。この故障者リスト入りするほどのケガは、選手にとって何よりも怖いことである。

黒田のメジャーデビュー戦のブルペン。右後方で球数を数える二村さん
 選手のルーティンに合わせて行動をともにし、対戦打者の研究を一緒になって行った。スカウティング・レポートのデータをすべて頭の中にインプットし、ビデオでチェック。右利き、左利き、足の速さ、得手・不得手の球種と打たれるコース、弱点など、すべてを把握し、投手コーチ、捕手、黒田とのミーティングに臨んだ。代打を合わせると、1チームに12、13人のデータを覚え込まなければならず、ナ・リーグだけでも14チームもありたいへんだった。
 黒田との関係は言うまでもなく、黒田が他の選手と良好な関係を築くことができるように努めた。他の選手が何を話して、なぜ笑っているのか、黒田には分からない。英語が話せない黒田が会話に入れ、コミュニケーションを上手く取ることができるように、黒田と日本語で話しながらも、英語、スペイン語が飛び交う雑談に耳を澄まし、くだらない話題でも黒田にとっては有益になり得ると考え、伝えた。喜ばれることもあり「うれしかった」
 黒田の頭部に強い打球が直撃して、マウンドで倒れた時。トーリ監督が「ケンジ、来い」。意識がもうろうとし、野球人生の終焉かもしれない危機だった黒田だが、「今のボールは誰が取ったんだ? アウトを取れたのか?」。搬送中の救急車の中でも、家族に心配させまいと気遣いながら、自分の身よりも試合の状況を気にし「これがプロなのか」と感服した。
 自分の仕事にプライドを持ち、強いプロ意識を持つ黒田。「プロを相手に通訳もプロでなければ」と、意識を高めた。「黒田さんの他人に気を配る人格は一級品」。黒田は、世話になった回りの人のお陰で今の自分がいることに感謝し、グローブには「感謝」の2文字が刺繍されている。「感謝する人は、感謝される」ことを学んだ。
 開花は遅く苦労して、努力1つで一歩一歩、メジャーまで登り詰めた男、黒田。甲子園にも出場せず、広島にはドラフト2位で入団。エースになるまでに年月を要した。よく聞かされた言葉は「初心を忘れるな」。けだし名言―「すごくない自分が、ここにいることがすごい」。おごらず、謙虚な気持ちを持ち続け、プロが考えていることを学ぶことができた。「本当にいい経験をさせてもらった」

二村健次(にむら・けんじ)
 岐阜県生まれ。父親の仕事の関係で11歳で渡米。加州立大サンホゼ校(文化人類学専攻)卒業。ニューヨーク大学大学院卒業後、交換留学でスペインに約5年間暮らし、スペイン語をマスターし修士号を取得した。日本で商社に約2年間務めた後、ロサンゼルスに戻り家業の和食器販売業「うつわの館」で働く。そのかたわらで、地元の高校、短大でスペイン語講師として教べんをとった。スペイン語の教授を志したが道を変え、2008年にドジャースに通訳として球界入り、2012年からフロントオフィス入りする予定。

テレビのインタビューに応える黒田と通訳する二村さん

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