2006年に95歳で他界した父は、戦後には、佐賀県の職業安定課で課長まで務めたあと、労働省の地方事務官(失業保険審査官)に取り立てられ、そのまま公務員ひと筋の人生を送った人だった。
 その父は、生地である佐賀では、創作民謡の作家としても知られていた。1931(昭和6)年、父が20歳のときに、その作品「佐賀行進曲」が藤山一郎を歌手としてレコードになったし、その後も長く、佐賀県文学賞の詩・民謡の部の審査員を務めたりしたからだった。
 父には「層雲」派の自由律俳句の俳人という顔もあった。
 1932(昭和7)年に佐賀で、先輩たちとともに「菱の会」を創設して始めた創作活動を、戦後も「窓の会」を足場にしてつづけたし、そのことも評価されて、晩年には「層雲」で「長老」扱いも受けていたようだ。
 父の作品はよく読んだし、しばしば感想を父に語りもした。この点では、わたしは、父親の趣味、いや、芸術活動をよく理解する、いい孝行息子であったはずだ。
 いや、孝行するつもりで読んでいたのではない。読むに耐えうる作品を父は創作しつづけていたのだ。そう信じている。
 若いころ、といっても、おそらく、60歳ごろまでは、世の一風景を鋭利に切り取った作品が多いようだったが、その後は心象風景を詠む句が増えた。
 老齢期の一日の終え方を見据えた「こころの襞ていねいにたたんで眠るとする」や、先立った妻を思う「いつ死んでも待たせたねと行くところがある」などは秀作だと思う。
 ただ、芸術というのは実にやっかいなものだ、と思わずにはいられない。
 日ごろ見知っていた父の姿、実像と、父が生んだ数々の秀句とがうまくつながらないのだ。取り立てて心優しくもなかった人から、右の二句のような作品が生まれるのだから。【江口 敦】

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