私の親の時代の生き方と言えば、兄弟が多く、学ぶ事もろくにできず、他人や家庭の手伝いが日常で、脇目もふらず、がむしゃらに生活してきた世代です。私の母親もその典型的な世代であり、兄弟姉妹を面倒見て、自らが働き続けること自体が目標であるような生活を送っていました。それはまるで忙しさが生きがいであるかのようです。ふと、気づいた時には孫が生まれ、そして成長したのを知り、何かをしてあげたいという思いだけで、また働き続けるという具合です。それは人生を駆け抜けるといった方が良いくらいです。
 人生には楽しさも苦しさもあるはずで、ふりかかっていたであろう苦しさは、忙しさやがむしゃら故に半減されたとしたら、たぶん幸福感も半減しただろうにと思ってしまいます。そういえば旅行に行っても、立ち止まって風景を眺めるより、先にある目的地に辿りついて、無事戻ってくることに意味を感じているようでした。そんな母親の生き方を見て育ったせいか、私にも同じような習性があったことを思い出します。
 高校を卒業した頃だったか、仲の良い友人と車で観光地に出かけました。あいにく観光地で車を長時間停める場所が探せずに、コイン駐車場に停めて時間を見ながらの観光となりました。それでも友人たちはじっくりと観光を楽しんでいるのに、私は次にくる時間が気になってしまい、「早く戻ろう」と言ってしまいました。その後の友人の苦言は言うまでもありません。忘れられない苦い思い出です。
 生きるには確かに正確で、しかも早く達成することが求められる場合もありますが、大切なのはそのスピードではありません。立ち止まってその風景を見て、その瞬間だからこそ出会えた人と会い、時には休息をとりながら、それでもしっかりと前を向いて歩き続ける事の方が大切に思います。
 そんなことを考えながら今年も母の日がやってきました。「ありがとう」の言葉と共に、「ゆっくりね」、と声をかけたいと思いました。【朝倉巨瑞】

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