裏庭のリンゴが真っ赤に色づく秋となり、ピュアラップ・フェアが始まった。
1900年に始まった同フェアは、ワシントン・ステイト・フェアとなった今も「ピュアラップ・フェア」の名で親しまれ、今年は息子に誘われ親子3代で出かけた。
シアトルから南に半時間ほどドライブしたピュアラップのフェアグラウンドには、生まれたばかりの子豚や1500ポンドの巨大パンプキンなどの展示だけでなく、ショーやコンサート、種々のアトラクションにスコーンやバーベキューなども。それらを楽しみに、約3週間の会期中に延べ100万人以上が訪れる。
ここはまた、かつてキャンプ・ハーモニーと呼ばれた場所でもある。
日米開戦の翌春に西海岸の日本人・日系人が立ち退きに遭ったとき、シアトルとアラスカの住民が最初に送られたのが、「集合所」としてフェアグラウンドに急造されたバラック群だった。1942年4月から9月までの間、7600人もの人々がABCDと4つに分けられたブロック内で過ごしたという。
ピュアラップバレー日系市民協会(JACL)は今月2日、「Never Again」と、始まったばかりのフェア会場で75年記念式典を開催。1400人が出席した。今回、会場内の博物館には当時のバラックなどを再現。キャンプ・ハーモニーでの厳しい暮らしについての証言や、収容者全員の名簿も掲示し、日系コミュニティーの辿った苦難の歴史が紹介されている。
展示品の中には、私の友人が大切にしてきたベビー・ブランケットもある。友人はキャンプで生まれた。誕生を祝いキャンプ内の女性が作ってくれたらしいブランケットには、「Camp Harmony B」と刺繍されている。
会場備え付けのノートには、いろんな思いが記されていた。
「6歳だった私は、フェアグラウンドに向かうと聞いて胸を躍らせましたが、待っていたのは全く違う惨めな日々でした…」と、キャンプ体験者。「米国史の中の悲しい一章ですね。シェアしてくれてありがとう」と、フェア訪問者の感想。
1人でも多くの人に理不尽な歴史を知ってもらうことは、今後再び同じようなことを起こさないために大事なことだ。食い入るように展示に見入る人の姿に、つくづく思った。【楠瀬明子】