先日、友人たちと集まり、1年に1度の旧交を温める機会があった。5名全員、各々の分野で専門職を持ち、それなりに業績を残してきたプロフェッショナルである。くったくのないお喋りだが、話の内容は豊かで実りがある。仕事、ボランティア、社会や経済の動き、こういう場にはご法度とされる政治や宗教の話題も出る。長年の信頼関係があるからこそであろう。
その会食後に、ふと気が付いた。ほとんどが病気の話だったことに。これまで一度としてこういうことはなかった。シリアスな病気の術後の人、立ち座りする時に膝が痛む人、手が震える人、耳鳴りが止まない人、私は左足が理由もなく鋭い痛みで引きつる。それぞれ体の一部に不調をきたし始めたことを話すと、質問や応答が静かに続く。
それは嘆くというより、体のパーツが長年の役目を果たし終える兆しに興味を持つ、といったほうが正確だ。体がどうやって自然分解するのかを体験し、そのメカニズムを知る。それは興味深い初体験だ。
初体験はどのようなものであれ、新鮮で、興味津々だ。年齢はほぼ同じなのに、それぞれの個体に異なった自然現象が起こる。車のパーツが一つずつ壊れ、最後は廃車になるのと同じで、私たちの体は自然分解した先に、静かな命の終わりが来る。
健康意識の高まり、生活環境の改善、医療の発達で、昨今は人生100年の時代といわれ始めた。長寿は喜ぶべきことだが、副産物もある。老後の身を支える貯蓄が予定以上の年数に耐えきれず、枯渇し、老後破産という不幸を招きかねない。老いて財布の中身を心配するのは辛い。
お葬式に出席する機会も格段に増えた。そこで頂くプログラムもたまってきた。それは故人の命をたたえるしおりでもある。米国ではお葬式は「命のセレブレーション」として、故人を祝福し、見送る。しおりは深い悲しみを救う役目を持つ。表紙には、旅立った人の清らかな笑顔が彼らの人生を語り掛ける。命を全うすることは、なかなか難儀なことになってきた。【萩野千鶴子】