新聞記者だった40年以上前、中曽根康弘さんを6年近く担当した。いわゆる「番記者」だ。
 大福中(大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘各氏)華やかなりし頃だった。自民党内で総理総裁の座を狙う3人の領袖による壮烈な政争が繰り広げられていた。
 「夜討ち朝駆け」の毎日だった。朝食時には中野区高田のお宅に押しかけ、夜は会合から帰宅したところを捉まえて取材する。
 中曽根さんの政治活動を一つの尺度にして政権党の動きをキャッチし、政官財界が織りなす日本の政治を読者に知らせるのが仕事だった。
 ワシントンでの6年の海外特派員を経て、番記者になったこともあって、中曽根さんからはアメリカ政治のことをよく聞かれた。「日米の政治がどう違うのか、気づいたことを書き留めておくといい」とも言われた。
 旺盛な探求心と摂生ぶりは、政界を引退されたあとも変わることがなかった。つねに本を読み、健康のためといって部屋でも車でもエアコンは一切使わなかった。
 「箱乗り」(政治家の車に同乗すること)したとき、背広のポケットから手帳を取り出して見せてくれた。表紙の裏には「結縁、隨縁、尊縁」と書かれていた。
 「人生にとって一番大切なのは人と人との縁だ」
 「ロンヤス」と言われたレーガン大統領との個人的な付き合いも、中曽根さんに言わせると「最初会った時からのご縁だった」
 18年冬、お会いした時、齢の話になった。「(みんなから)百歳、百歳といわれるが、人は齢じゃないよ。その瞬間、瞬間をどう生きているか、だ」
自作の句、「暮れてなお 命の限り 蝉しぐれ」。中曽根さんの人生哲学が凝縮されていた。
 作家、吉行淳之介さんのご母堂で美容家の吉行あぐりさん(107歳)は「氷の溶けるように死にたい」としたためている。
 マスコミは中曽根さんの死を「巨星墜つ」と報じた。政治一筋、迷わず悔いなく生き抜いた中曽根さんは「大きな氷の溶けるように」旅立たれた。今遠く離れた異郷に住む、この元番記者にはその表現のほうがぴったりくる。【高濱 賛】

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