三河屋の最後の一店の閉鎖について、時間を割いて何かを書いてくれた人々に感謝しつつ、私は最後に三河屋の簡単で完全な歴史を書き残しておきたいと思っている。

亡き妻フランセス・カズコ・ハシモト・フリードマンの大叔父が三河屋を創業し、妻の父であるロク・ハシモトはその叔父のために働いていた。ロクは一度日本に帰国し、妻の母であるハルと結婚し、2人はロサンゼルスに戻ってきた。
大叔父が引退で日本に戻ることになったときに、ロク・ハシモトに事業を譲った。それが1910年のこと。大叔父が三河屋を最初にオープンしたのはいつだったのか。それは誰も知らなかったので、私たちは常に1910年から数えてきた。今年で111年になる。

三河屋の創業100周年記念の祝賀会を開き、笑顔のフランセスさん(手前)とジョエル・フリードマンさん夫妻

三河屋は、第二次世界大戦中にハシモト家全員がアリゾナ州ポストンに強制収容されていた短い休業期間を除いて、開業日からずっと小東京で商売をしてきた。ハシモト家が小東京に戻ることを許可されたとき、ロクが米国の株式市場と米国の銀行を信じていたことが幸いし、事業を再開することができたと聞く。
ロクの死後は、ハルと妻の姉が店を切り盛りした。私の妻は大学卒業後に3年生担当の小学校教師として働いており、その状況はしばらく続いたが、母親が病気になり、姉が続けることができなくなった時に、妻は仕事を辞め、三河屋のリーダーになった。三河屋は伝統的な和菓子の専門店して継続し、妻フランセスのリーダーシップの下で、南カリフォルニア、ハワイ、カナダにいくつかの小売店をオープンした。
妻と私は72年に結婚し、2012年に妻が亡くなるまで婚姻していた。私ははじめて和菓子に触れ、最終的に和菓子のビジネスに参入することになった。妻は私たちがどんなにビジネスで忙しい時も、日本のコミュニティーを心から愛し、コミュニティーを改善したり、小東京のビジネスを助けたりすることに時間を惜しまなかった。フランセスは二世週祭で女性初の実行委員長になり、また、日本との国際関係を広めるためにほぼ毎年日本に旅行した。彼女は小東京のほぼすべての日系米国人組織の理事を務めていた。彼女は小東京にオープンしたさまざまな会社で働いていた人々と協力して、彼らが公平に扱われるようにした。
84年、ロサンゼルスで五輪が開催されていたときに日本を訪問しいていた私は、和菓子のあんの代わりに良質のアイスクリームを詰めるというアイデアを思いついた。帰国後、妻と私はこれが素晴らしいアイデアであると確信し、製品を開発するだけでなく、品質を損なうことなく大量に生産できるようにすることに取り組み始めた。94年4月、餅アイスクリームは世界にデビューした。最初の3カ月で、ハワイのアイスクリーム・ノベルティ市場全体の14%を占めた。その頃から、餅アイスクリームをすし店、アジア系食品店、さらにトレーダー・ジョーズなど非アジア系の食品店にも紹介した。
生産数は毎年2倍、3倍と大きくなった。私たちは工場を当初の2・5倍以上のサイズに拡張した。この間、妻はこれらすべてのことを手伝っただけでなく、小東京をすべての人にとってより良い場所にするために、さらに多くの時間を費やした。
妻は08年に病気になり、彼女の願いと努力も虚しく三河屋や小東京での時間は減少し始めた。妻は12年に亡くなった。
彼女の死後、会社の売上高が25倍に増加したことも含むさまざまな状況により、会社を売却する時期になった。だが、三河屋を買収した会社は餅アイスクリーム事業のみに関心があり、和菓子事業には関心がなく、日本村プラザを除くすべての小売店を閉鎖し、和菓子の製造を中止したことが分かったのは後のことだった。三河屋は104年間和菓子を作ってきていたので、これ自体が衝撃的な啓示だった。また、社名も三河屋から変更してしまった。三河屋に残ったのは、日本村プラザの1店舗のみだった。
そして最後の小売店の閉店により、日系コミュニティーと米国を象徴してきた111年の灯火が消えた。【訳=長井智子】

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