時々、昔の記憶が訳もなく突然よみがえってくることがある。その時に見たり聞いたりする環境や状況が引き起こすのかもしれないし、記憶は未来を予知させるヒントのようなものかもしれない。例えば、ある特定の人のことを考えていたら、その人からメールが届くといったようなものだ。
 記憶は非常に曖昧なものでもあり、時に相手に不信感を抱かせたりする危険なものでもある。友人と会う約束をして、その日時を間違えて記憶して、相手からの電話で指摘されて冷や汗をかいた経験は誰でもあるだろう。
 これがビジネスだと、とんでもないことになる。だから議事録をつけたり、カレンダーに記入して記録を残すわけだ。さらにお互いの認識に相違がないかを確認するためにリマインダーを送ったりもする。誰だって時間を無駄にしたくないから当然だろう。そして、その最たるものが契約書。話した内容を文書に残し合意の上、署名する。不履行をすれば裁判沙汰にだってなる。
 とはいえ、家族や友人たちと契約書を交わすことなど日常では考えられないので、われわれはあやふやな記憶を頼りにしながら生活している。「言った」「言わない」で不信感を生み、絶縁にまでなり得るから本当に怖い。年齢を重ねていくと、記憶より記録の方が大切だと感じること多い。だから、私は日々起こった出来事(事実)を記憶が新しいうちに、できるだけカレンダーに記録する。アドレス帳にも、その人との会話に出てきたトピックや情報を常に記録している。
 ただ、記憶も記録も全く意味を成さなくなることが人間には起こる。それは現時点では治療法のない認知症やアルツハイマー病である。家族の顔も名前も忘れてしまう。記憶がなくなっていくわけだから、記録は無意味で、そこには虚しさのみが残る。
 だから記憶があるうちは記録の助けを借りながら、人生を最大限に楽しみたいと思う。古代から人間は生きた証と知恵を後世に残すために言葉を生み出し、記録を残してきた。書くことは記録(記憶)を残すこと。今日もカレンダーの締め切り日を見ながら、「磁針」のエッセーを書く。(河野 洋)

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