「命をかけて国を守る」、「命が尽きるまで戦う」という言葉を耳にすることがあります。どうもこういった言葉には違和感があり、そんな時に疑問になるのが、自分の命ははたして自分のものなのだろうか、ということです。自分の命は自分に所有権があるものなのであれば、自分で自分の命を処分することも正当化できるかもしれませんが、はたしてそれは正しい考え方なのでしょうか。土地や国を守るために自分の命を投げ出す行為は、時にそのことを知った人の心を揺さぶります。命をかけた人たちを非難したい、と言っているわけではありません。ですが、家族や親しい友人の気持ちからすれば、命をかけた行為を心から称賛することはあるのでしょうか。
 と考えていた時に、医学博士であり昆虫学者でもある養老孟司さんの言葉に出会いました。「命は自分のものだから、自分の好きなようにしていいんだと思っていますよね。自分の身体や命が『自分のもの』であるという暗黙の了解ができています。それが常識になってしまっている。でも、そんなことは、どこにも決められていないんです。命は誰のものでもないのです」という。
 かつては、家や名誉や国のために命をささげることが当たり前の時代がありました。ですが、命は空気や星と同じように誰のものでもありません。もれなく誰もが対価を支払わずにもらったものであり、自分のものではない、という考え方がとてもふに落ちたのです。自分の命は自分のものでないと考えれば、自分や他人が勝手に処分すべきでないことも納得がいくのです。
 肉体はこの世に出るための借り物という考え方があります。命も借り物なのだと考えると、そこに自分の命への責任が出てきます。自分の命を粗末に扱う人は、他人の命も軽視します。自分の命への責任を思えば、他人の命を慈(いつく)しむ気持ちが現れます。命に所有者がいないということは、誰もが命の所有者であるとも言えるかもしれません。買われる命もあり、金銭で補償される命もあります。命は誰のものかについて、私たちは考え続けなければなりません。(朝倉巨瑞)

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1 Comment

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  1. 確かに私達の肉体は借り物です。それがわかるようになったのは、ごく最近です。人生をどのように生き、どのように肉体を失い”たましい”だけになるか、を考えることできてから、なにか動揺するようなことが起こっても、気持ちが落ち着いています。