長野県松代の大本営地下壕跡を訪れた。入場は無料で地下壕には備え付けのヘルメットを被って入る。
中は真っ暗だが見学路には電灯が灯り、ずっと奥まで続いている。固い火成岩の岩盤をくり抜いた地下壕は幅4メートル高さ2・7メートル。碁盤目のように縦・横に掘られ、想像以上に大きい。見学路は500メートルで終わるが、総延長はおよそ5・8キロメートルもあるという。
購入した本「松代大本営の真実・隠された巨大地下壕」(日垣隆著、講談社新書)には、この地下壕の経緯が詳しく書かれていた。第2次大戦の末期、日本の敗色が日々濃くなってゆき、参謀本部は宮中と参謀本部、省庁の移転先として松代を選んだ。信州は神州に通じ、日本の中心部で近くには飛行場もある。ある日突如、近くの民家百数十戸に立ち退き命令が発せられ、続いて7千人を超える地下壕工事の労務者が送られてきた。朝鮮人労務者も多数いて、かなりの人たちが強制的に連行された。朝鮮人女性の慰安婦もいたというが、松代の人たちも長らく詳細は知らなかった。
参謀本部の作戦は、連合軍の日本上陸に備えて天皇や主要省庁・日本放送協会を松代に移転し、本土決戦で一定の戦果を上げ、国体護持を条件に終戦に持ち込む考えだった。工事が始まった翌年の昭和20年8月に広島・長崎に原爆が投下され、ソ連の参戦もあり天皇は終戦を決意、8月15日に「玉音放送」で降伏を宣言した。
そのまま本土決戦に突入していたら、さらに何百万人もの犠牲者が出たに違いない。天皇は日本民族の存続のために、断腸の思いでポツダム宣言を受諾すると詔勅を発した。
明治政府が発足して日本は国際社会の一員となり、終戦までの77年間は幾つもの戦争があった。言わば「戦争の時代の77年間」。終戦後は、�国民主権、�平和主義(戦争の放棄)、�基本的人権尊重の新憲法が定められ、令和4年の今年は終戦から「戦争のない平和な77年間」という節目の年である。
12月、防衛費を倍増し敵基地攻撃能力を備えるという国防方針の大転換に踏み切った岸田政権、日本の国防政策の大転換である。新年は、日本国の在り方を一人一人が深く考えるべき年だと思う。(若尾龍彦)