「陰暦の大みそかの晩に惨劇は起こった。折から新月による高波注意報が連日報じられていた」。サスペンスの書き出しのような事件が実際に起こった。三種の銃が用意され計画的だったことは分かるが、実行者の自殺で真相は闇の中。旧正月を祝う時期に銃による惨劇は続いた。新年の幕開けが悲劇では、この先の1年はウサギのジャンプで乗り切って!としか言いようがない。それにしても、銃撃による事件は、驚かなくなるくらい多い。日本からは「大丈夫?」と、事件に巻き込まれていないか心配するメールも来る。日本ではめったにない事件。そのくらい感覚に差がある。
感覚の違いといえば、なんでおかしいと思わないの?と感じる不思議な出来事の多いこと。日差しを遮る巻き上げ式のシェードの上に物、例えば分厚い雑誌とか障害物や分離帯などに使用するレッドコーンがあったりする。なぜ軒先にこんな物があるのだろう、誰がわざわざしたのだろう、とか思うのだが、他の人種の人に「あんな所にあんな物が上がっている」と言って見せると、単に「コーンか、あんたのか?」と言って取ってくれる。いや私の物でもないし、なんで上がったのかなとか思わないの?
スナック菓子が道路に積み上げられているのを見ても、食べ物で遊ばないでほしいと思うが、誰も目もくれないし、踏んづけて粉々にする方が普通。食糧不足やフードロスを思っている人などここにはいないし、食べ物に困っている人もいないのだと思う。少なくとも日本人で、ある程度の年齢なら、食べ物を粗末にすることに抵抗を感じると思うが、その感覚がない。荒涼とした砂漠の中にいると感覚自体が殺伐としてきて、物を大切にとか命を大切にという感覚が鈍くなってくるのだろうか。簡単に銃を振り回すのには、潤いがなく情緒に欠ける環境も影響しているのだろうか。
月の満ち欠けのような自然の営みは人間の生死に関係しているといわれてきた。ここにいると月を愛でる、少なくとも空を見上げるということもしない人たちが多いように思う。節分も近い。邪気を払って今年が良いことのある年になりますように!などという感覚はないのかも。(大石克子)