
南カリフォルニア日系社会の発展に尽力した三宅明巳さん(享年107)の訃報を受け、日系社会は深い悲しみに包まれた。三宅さんを慕った人々が哀悼の意を表し、「ありがとうございました」「お世話になりました」などと感謝を伝えるとともに、故人の遺志を受け継いでいくことを誓った。

1919(大正8)年、アーケディア生まれ。農業移民だった父親の故郷広島へ4歳で移住し、18歳で帰米。日米開戦に伴う日系人収容所での生活を避け、ユタ州の農園で労働に励んだ。家族や親戚、友人が暮らす敵国となった日本を案じずにはいられず、二つの祖国の狭間で人生を翻弄された。
三宅さんの、地元日系社会と日米関係への思いは強かった。南加県人会協議会、オレンジ郡日系協会(OCJAA)、南加日系商工会議所、南加広島県人会などの日系有力団体で要職を務めた。また、日本文化では詩吟、民謡、書道、茶道などで活躍。これらの功績が評価され、叙勲2度をはじめ数々の権威ある賞を受賞した。
日米両国への愛国心に満ちあふれていた。海を渡り新天地で農地を耕した1世に敬意を表し、最前線で戦闘を繰り広げた2世兵を絶賛。そして、駐在などで渡米した新1世の勤勉さを称賛した。「米社会における日系人と日本人の地位向上は、こうした各世代のたゆまぬ努力によるもので、われわれは彼らが確立した恩恵に浴している」と、強調していた。

日系の各種イベントでは、団体の代表としての祝辞や謝辞の依頼にも快く応じ、熱弁を振るった。会場からの「待ってました」の期待の中で登壇すると、詩吟で鍛えた張りのある声をとどろかせ、名調子で聴衆を魅了した。99歳の時には「頭は、かなりボケている(認知症)」と冗談めかして語りながらも、メモを一切見ず、延々と話し続けた。決めぜりふの「サンキュー、ベリー、ベリーマッチ」と叫んで締めくくり、万雷の拍手を浴びると、「これが快感だ」と、子どものように喜んでいた。
三宅さんが所属した日系社会の3団体の代表が、多大な功績をたたえ故人をしのぶ。
三宅さんを模範に
元県人会協議会会長
タック西
三宅さんとの付き合いは60年以上で、私が日系のコミュニティーバンド(富士アコーディオンバンド、リトル東京バンド)で司会を務めていた頃、三宅さんが所属した広島県人会の余興に呼ばれ、知り合いました。南加県人会協議会、日系パイオニアセンター、そして三宅さんから勧められて入会した南加日系商工会議所で共に働く中で、さまざまなことを学びました。「仕事をしながら、奉仕で貢献し、日系コミュニティーを大切にしなさい」と、素晴らしい教えを授かりました。
県人会協議会の親睦演芸会は1972年に始まり、当初の目的は協議会の活動資金集めでした。ところが、81年の当時、会長をされていた三宅さんの提案で日本文化推奨の育英奨学金のための資金集めに路線を大きく変えました。また、蓄えた奨学資金は、会則で他の用途への使用は禁じられていましたが、2011年の東日本大震災の際に、三宅さんが「困っている東北の復興支援に役立てよう」と提言し、全会一致で決定しました。口に出すことすらできない資金の転用を提案し、容易に通してしまうことに驚かされました。このように、誰も思いつかない名案がひらめくと、即座に言い出すことが多々あり、三宅さんのリーダーシップには敬服しました。
県人会協議会の親睦演芸会の司会者の人選では、地元テレビ局のアナウンサーの起用がほぼ決まっていましたが、三宅さんが「タックさんがいるじゃないか」と推してくださり、「お願いします」と頭を下げられ、感激しました。また、「今日の司会よかったよ」と、何度も褒められたものでした。司会を今日まで続けてこられたのは、三宅さんの助言があったからこそだと感謝しています。100歳の誕生会でも司会を任され、たいへん光栄でした。誰にでも笑顔で接していましたので、私は妻(故敬子さん)から「三宅さんを見習って、いつもニコニコしなさい」とキツく言われ、司会者として舞台に立つ際には心がけています。
畑で汗水流して働く傍らで、三宅さんは日系社会での労働奉仕に加え、大口の寄付をされていました。そうした多大な功績が認められ、日本政府から2度の勲章を受け、大日本農会からは「紫白綬有功章」を授与されました。大きな百姓(大規模な農場経営)として成功を収めましたが、富や名誉に関心がないように感じられ、おごらず、大好きなコミュニティーの人々に優しく接してきたからこそ、厚い人望を集めたのでしょう。
三宅さんは、父からの教え「人のために尽くしなさい」を実践したからこそ、コミュニティーから慕われ、107歳まで長生きしたに違いありません。日系社会の大きな星が堕ち、残念に思っています。私は現在90歳ですが、三宅さんは90歳を過ぎても、しゃきっとして元気に社会貢献を果たしていました。107歳まで生きる自信は持っていませんが、三宅さんを模範に頑張っていきます。
遺志を継ぎ、恩返し
前OCJAA会長
藤田喜美子
ボランティアで社会の役に立つことは、何て素晴らしいことでしょう。その活動の場を提供してくれたのがオレンジ郡日系協会(OCJAA)であり、奉仕の道に導いてくださった会員の中に三宅さんがおられました。三宅さんとは1999年の秋、OCJAAが主催した「第1回日本文化フェア」を手伝ったご縁で知り合いました。
その後もイベントに携わり、地元の名士ぞろいのOCJAAの理事会に迎えられ、歴代会長の顧問の皆さんに一から教わりました。三宅さんと、今は亡き三宅さんの盟友の伊藤富雄さん、ジャック内藤さんの3人には特にお世話になりました。3人の性格は全く異なりましたが、共通点はそれぞれがリーダシップを持ち合わせ、社会的地位を築いた後も、おごらず、誰に対しても尊敬の念を持ち接する。そして、気配りを忘れず、年下の後輩にも敬語で優しく語りかける姿に感銘を受けました。また、自分たちだけの繁栄に満足せず、弱者を助け、共存共栄を目指した社会を考えておられました。
諸先輩から背を押され会長に就任した私は、理事会の協力を得て会員の団体旅行(ラスベガス、マンザナー日系人強制収用所跡地など)や健康セミナー、シニア向け教育・文化教室(コンピューターやiPhone、書道など)、シニアへの無料弁当の宅配プログラム「まごころ弁当」を始めることができ、三宅さんにも大変喜んでいただき、うれしく思いました。三宅さんに協会の運営に関し助力を仰ぐと、その都度、適切なアドバイスを惜しみなくいただきました。ご指導の全てが私のかけがえのない財産となり、吸収した全てを社会活動に役立てています。会長を10年務めることができたのは、三宅さんをはじめとする偉大な先輩のおかげです。
三宅さんは、生まれた米国と幼い頃から教育を受けた日本を愛していました。そして、日本食、日本文化を好み、天皇陛下にもお会いになられ、日本に対しては人一倍、愛国心を持っておられました。お茶、お花、書道、日本民謡、詩吟の会などで顧問を務め、普及にも力を注いでおられました。二つの祖国を愛し、地域社会を愛し、地域の人々を愛していたからこそ、コミュニティーから絶大な信頼を得たと私は確信しています。
「100歳まで生きるぞ」などと、何か目標を持ち、常に気持ちは前向きで、自分を後回しにして「人のために何かをする」という意欲が健康と長寿の秘訣のように映りました。私たち後輩は三宅さんから寵愛を受け、新参者の私も受け入れ支えていただきました。三宅さんから学んだことは私生活でも生き、米国で生活する指針となっています。
時代とともにNPOの運営方法は変わっていきますが、三宅さんが重視されていた人と人のつながりは不変ですので、人的交流を大切にしたいと考えています。人生の恩人である三宅さんには「ありがとうございました」の言葉だけではすませることはできません。お世話になったお返しとして、より一層の社会奉仕で示すつもりです。受け継いだ全てを、次の世代の方々につなぐことこそが、恩返しと思い、精いっぱい尽くします。
感謝を込めて
大日本農会加州支会会長
小山信吉
三宅さんがお亡くなりになり、大日本農会での活躍をしのびながら、1985年に発行された大日本農会南加支会創立25周年の記念誌を改めて読みました。当時、三宅さんは当会の副支会長をされており、式典では司会を含め大活躍されていた様子が、目に浮かぶように思い出されました。その後、93年から97年まで会長を務められ、多大な貢献をしてくださいました。
北米の大日本農会の発足は30年で、60年に南加と北加に分かれました。かつて加州日系人口の約半数以上を占めていた農業従事者の農業発展、日系社会の福利増進、日米交流に尽力された方々を、宮家が総裁を務められる大日本農会が表彰してきました。
日系農家の歴史には、外国人土地法(1913~56年)による締め出しや第2次世界大戦後の無一文からの再出発など、多くの苦労がありましたが、三宅さんはそのような苦労をよくご存じで、日系農家の皆さんのために、いつも誠意を込めた言葉や行動で接しておられました。その姿に、三宅さんならではの人柄をいつも感じておりました。私が会長になった折には、心配していた私に「大丈夫」と言って、肩をたたいてくれました。
自分のことだけを考える生き方に喜びはありません。喜びに満ちた素晴らしい人生の手本を見せてくださった三宅さんに感謝いたします。
