「黒人歴史月間」の2月、アフリカ系の功績をたたえ、敬意を表すためのイベントが各地で開催されている。私が尊敬する最も身近なアフリカ系の女性は、義理の母である。6人の子どもを育て上げ、老後に大好きなハワイへ引っ越してから20年。米寿を迎えた今も、一人暮らしを満喫している。
義母はシカゴ生まれで、若い頃はジャズシンガーとして、アル・ジャロウやデビッド・サンボーン、ハービー・ハンコックら大物ジャズミュージシャンとも共演した。50代でけいれん性発声障害を患い、残念ながら私は義母の生の歌声を聞いたことがないのだが、子どもたちからは今も「Diva Mama」と呼ばれている。
魅力的なシンガーだった義母は、ツアーで訪れたアイオワ州で、ジャズ愛好家の白人男性と出会い結婚する。この男性が私の夫の父親で、当時はアイオワ大学の大学院生だった。金髪に青い目のスコットランド系米国人で、後に詩人として本も出版している。
義母が妊娠中だった新婚当時、2人がアイオワ市の交差点を歩いていると、年老いた白人男性が車を停めて「お前、撃たれたいのか」と義父に叫んだという体験談がある。若いカップルだった2人は大笑いしてこの車を通り過ぎたそうだが、差別が色濃く存在していた中西部の田舎町で、腕を組んで歩く2人の姿は多くの人に驚きの目で見られたことだろう。
2人が結婚した1965年は、米国の14州で白人と黒人の結婚を違法とした「異人種間結婚禁止法」が存在していた。わずか58年前の話だ。
そう考えると、夫は白人と黒人の間に生まれた子どもとしては先駆者であり、公民権運動の影響を大きく受けて育ったものの、さまざまな体験をしてきたことと思う。実際、フルスカラシップで入学を勧誘されたイェール大学では、学校説明会の翌朝、宿泊していた部屋の前に砕いたオレオクッキーをまかれる嫌がらせを受け、別の大学を選んでいる。
先日、大学入学に向け資料請求をしていた高校生の息子が、人種背景を問う項目で、アジア系と白人のみならずアフリカ系にもマークしたことを聞かされ、義母や義姉が大喜びする出来事があった。息子は驚き、当たり前でしょ、と不思議な顔をしたが、これが当たり前ではない過去があったのだ。激動の時代を生きてきた義母。次の再会時には、若い頃の話をまた聞かせてもらいたい。(平野真紀)