物心が付く前から日本舞踊に囲まれる環境があった。明治生まれで東京・木挽町の大工の娘だった祖母が、常磐津の「おしょさん」の縁で「あんこ屋」の祖父と祝言を挙げ、新婚旅行代わりに人力車で行ったのは、新橋の演舞場。「で、その翌日からすぐに働いてあんこを丸めたんだよ」と祖母が話していたが、芸事が結んだ2人の親戚筋の子どもたちは、ほぼ全員が幼少期に日本舞踊を習っていたという。
 中でも私の母は特別で、花柳流家元の壽輔師に上がり、子どもながらに東京新聞全国舞踊コンクールに出場し、大人に混じって2位になった。そう聞いてはいたが、試しにググってみたらサイトがあり、コンクールは80年後の今も続いていることが分かった。そこに「第1回入賞者の2位は8歳」という記述がある。これが母だろうか。「翌年から子ども部門が分かれた」と聞いた記憶と、サイトの記述も一致していた。戦争があったり諸事情があったりで普通の主婦になった母だが、子育てが終わってから亡くなるまでは再び踊りに情熱を傾けていた。
 こんな星の下に生まれたので、芸事がうまくなるとされる6歳の6月6日の雨の中、私も手を引かれてお稽古に上がったのはいいが、「この娘は向いてない」と周囲を嘆かせるのに時間は必要なかったと思う。自主的に向かい合ったことは一度もなかったのに、それでも15歳ぐらいまで続けたのは「おさらい会で踊ったらリカちゃんハウスを買ってあげる」と言われたからだった。
 大学卒業後にジャーナリストビザで渡米し、帰国してすぐの1995年に母が亡くなった。娘を先に亡くして悲しむ祖母を慰めるために、また踊りを始め、2007年に再び渡米してからは坂東拡三也先生に教えていただく機会を得た。もうすぐまたおさらい会がある。
 自分に踊りの天分がないことは50年も前に自覚したし、私にリカちゃんハウスを買ってくれる人はもう誰もいないのに、なぜ踊るのかといえば、今はただそれが自然なことに思えるのだ。言い換えればそれが血というものかもしれないし、先祖や日本とつながる私なりの方法とも言える。(長井智子)

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