われわれは生まれてきた時、何の意識も持っていない。まさに無からスタートだ。家族以外、直接つながりがある人は誰もいないから、しがらみもなければ財産もない。両親が持っているものを与えてもらうだけ。
 先日、同じ街に住む18年来の友人が、がんで逝去した。自分の年齢とさほど変わらない先輩が、この世から突然いなくなるという事実に、衝撃を覚えずにはいられなかった。明日はわが身だから。そう考えると、今、生きていることは奇跡。健康でいられることに感謝せずにはいられない。その点でわれわれは選ばれた者たちであり、生きている間に、人のため、世のために何かすべきだろう。人間は1人で生きていけないのだから、より良い社会を作ることにできる限り尽力しないといけないと思う。
 果たして、人間が死ぬ時、一体何が残るのか。それは誰にも分からない永遠のミステリーだ。魂の話をしたら、輪廻(りんね)転生という永遠のファンタジーになる。ただ、1人で現世にやってきて、1人でこの世を去っていくとすれば、人生とは終始孤独が前提で、出発駅の「無」から終着駅の「無」へ移行するだけではないか。であれば、死を恐れることは何もない。ただしわれわれは命を授かった者として、生まれてきた意味を探す。だから、生きている間に答え探しに、たくさんの人たちと出会い、学び、考え、生きていた足跡を残すために、創作し、生産する。
 生み出すものとは、子孫、書物、芸術、建築、名声、思い出など、さまざまな形がある。それらは、全てわれわれが夢を見ることから始まる。この人と一緒にいたい、あそこへ行きたい、こんなものを作りたい、残したい。そう、答え合わせをするために。そのためにはどうすれば良いのかと人は試行錯誤するし、その夢に向かって日々努力する。
 夢は頭に浮かぶだけで具現化できず消えるものがほとんどだろうし、寝ている間に夢となって見え隠れすることも多々ある。そんなはかない夢を、われわれは生きている間、ずっと見続けている。
 今は亡き友人は夢ではなく現実だった。無(生)から無(死)へ向かう列車で出会い、少し早く下車した友。合掌。(河野 洋)

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