動物だけでなく、人間にも帰巣本能はある。かつて暮らしていたところに行ってみたくなる習性のようなものだ。
8月上旬、首都ワシントン、その1週間後にシアトル、と久しぶりに訪れた。
前者は50年前に新聞社の特派員として7年間、後者は留学や短期滞在ではなく、米国への永住を決めて、最初にたどり着いた場所だ。
特に帰巣本能だけが働き、出かけたわけではない。ワシントンではジャーナリスト会議があり、シアトルでは義兄の息子の結婚式があったからだ。
ついでに、の帰巣ではあったが、自分がかつて過ごした地での記憶を確かめたいという思いは行く前から徐々に高まっていた。
ホワイトハウスや国務省の建物を外から眺め、20代後半から30代前半、ワシントンから東京に向けて死に物狂いで記事を送り続けた、その懐かしい日々を再確認したかった。だが、行ってみると、そこはもはや別世界だった。その時知り合った人たちはほとんど鬼籍に入っていた。30年ぶりに再会した米外交官K氏とはギリシャ料理を食べながら「過去」を語り合ったが、2人の記憶はあまり交錯しなかった。
シアトルでは、かつて散歩したレーク・ワシントンの湖畔に行ってみた。若いカップルや子ども連れでにぎわっていたが、それは記憶の中の風景ではなかった。同じ樹木、湖水なのに、そこは見知らぬ世界に変貌していた。
パイク・プレース市場に近いコンドミニアムに投宿した。その7階のバルコニーから朝夕、港湾を行き交うフェリーや停泊中のクルーズ船を飽きるほど眺めた。記憶を手繰り寄せようとしてみたが、独り善がりの思い出ばかりが浮かぶだけだった。記憶とは客観的な「記録」ではない。どこまでも自分本位の、自分だけの刻印なのだ。(高濱 賛)
