
巨匠マーティン・スコセッシの新作「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン(Killers of the Flower Moon)」は、上映時間が3時間26分もある。アカデミー賞狙いの大作にありがちの長尺だが、果たしてそんなに長くする必要があったのだろうか?
2019年の「アイリッシュマン」は3時間29分、13年の「ウルフ・オブ・ウォールストリート」は3時間、02年の「ギャング・オブ・ニューヨーク」は2時間47分。どれも長尺だ。しかし、「ウルフ—」も「ギャング—」も、いわゆる中だるみするような感覚は少なく、「さすがスコセッシ」と、そのパワフルさに圧倒された。だが「アイリッシュマン」 は、「TVシリーズを1本の映画にしたのか?」という考えが途中で浮かんだ。「配給がネットフリックスだけに、配信を念頭に置いて劇場映画を作ったのだろう」と残念な気持ちになった。

「キラーズ—」は、米国社会のダークサイドを浮き彫りにし、米国先住民のオーセージ族が被った悲劇を描いた作品。これまでほとんど知られていなかった悪行をハリウッドの大物が取り上げて、とてもうれしく思った。しかし、映画を見て感じたのは、「長尺にもかかわらず、描き切れていない。TVシリーズのダイジェスト版のような作品」という印象だった。自分の利益のためなら他人の命を軽んじてしまう感覚はどうして生まれるのかが深掘りされていなかったのだ。
マイノリティーが受けた悲劇を人種ヒエラルキーのトップにいる白人男性が描く場合、われわれマイノリティーの心の傷を表現するのは容易ではない。彼らは「差別」を受けた経験がないからだ。映画の中で事象を語るだけでは、多少の追体験を提示できても、心情を描くことにはならない。
巨匠スコセッシの本作は、題材も映像も素晴らしかった。しかし、主要登場人物の心情描写がすっぽり欠けていたような気がする。それ故に「長すぎる」という印象を与えてしまった。
名優でスコセッシの盟友のロバート・デ・ニーロ、レオナルド・ディカプリオの熱演は伝わってきた。だが、ディカプリオの「ゴッド・ファーザー」のマーロン・ブランドもどきの演技は、ブランドのオスカー受賞の際の出来事にちなんでいたのかもしれないが、しっくりこなかった。本作でスクリーンからキャラクターの人柄と心情をにじみ出していたのは、助演となった先住民役の面々。特にヒロインのモリーに扮(ふん)したリリー・グラッドストーンの演技は秀逸だった。彼女は今期の映画賞レースで歴史を作る女優となるだろう。先住民初の演技賞オスカーという栄誉を。
本作のもたらす恩恵はそれだけではないと願いたい。この映画を通して米国の黒歴史を知った人々が、歴史を繰り返さないと決心してほしい。
キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン デイビッド・グランによる2017年の同名ノンフィクション小説を映画化した壮大な西部劇犯罪ドラマ。第1次世界大戦に従軍したアーネストは、先住民のオーセージ族が石油で豊かな生活を送るオクラホマに移住し、石油の利権を持つ現地の女性モリーと結婚する。表向きは良き夫、善人の振る舞いを見せる彼だったが、裏では卑劣な行為を重ねていた。(はせがわいずみ)
