ジャーナリストの娘は画家でもある。そしてベジタリアン(菜食主義者)だ。
娘が最近、3枚の絵を描いた。エプロン姿のアヒルがダック・スープを作り、日の丸の鉢巻きをしたマグロの板前さんが刺し身を切る。牛のシェフがアイスクリームを作っている。コミカルな3部作だ。「自産自消」(自分で生産し、自分で消費する)か、「共食い」か。娘は、「食べるということって、何なのか」という問いかけがモチーフだと言う。
アヒルが人間だったらカニバリズムだ。人間が人間を食べないのはなぜか。人類が理性で決めた「タブー」だが、それ自体を直接罰する法律はない(その前の殺人や死体遺棄が刑法で罰される)。娘は中学生の頃、牛や豚を残虐に食肉処理する「と畜場」のドキュメンタリーを見てから肉を一切食べなくなった。
大阪大学の檜垣立哉・名誉教授は、著書「食べることの哲学」で「人間は何かを殺して食べている」と書いている。人気漫画「美味しんぼ」の主人公は「命あるものを食べなければ生きていけない人間は罪深い存在なのだ」と吐き捨てるように言っている。
宗教者の断食や拒食症患者を除いて、人間は何かを殺して食べる。死を選んだ即身仏ですら木の実や木の根っこを食べる。だが、考えてみると、人間が殺して食べている牛も魚も、自分より脆弱(ぜいじゃく)な生き物(植物も生き物だ)を殺して食べている。「食物連鎖」である。
「食と性は、元来、動物が生物種を維持するための必要最小限度の営みだ。それに快楽を伴った感性や儀礼を加えているのは人間だけだ」(檜垣教授)。それすら時代とともに変わる。今や全世界は「すしブーム」だが、ついこの間までは、欧米では「魚を生で食べる」ことは気持ち悪がられていた。
50年鮮魚を扱い、最近リタイアしたYさんは、こう追懐する。
「毎日365日、魚の頭をたたき、切り刻み、アワビを生きたまま焼く商いをしてきた。ずいぶん魚を殺してきた。魚供養でもしないと罰が当たる」
日本人は食べる前に手を合わせて「いただきます」と言う。これから食べる生き物の命を頂戴し、自分の生命にさせていただくことに感謝する、平安時代からのしきたりらしい。
オランダのリンデン大学の調査によると、人類は1年間に750億頭(匹、羽)の牛豚鶏をと殺しながら、そのうち180億頭(匹、羽)は食べずに捨てているという(これには魚介類は含まれていない)。
食べもしないのに殺さない。殺したものは残さず食べる。生き物の命を頂戴している者として、最低限、それぐらいの挙措はすべきではないだろうか。(高濱 賛)