
オックスフォード英語辞典によると、「インターセクショナリティー」とは「人種、階級、性別などの社会的区分が相互に関連し合い、差別や不利益が重なりあった依存的なシステムを作り出していること」と定義している。
このたび、著名な俳優兼活動家であるジョージ・タケイさんが本誌の独占インタビューで、米国で民族的・性的マイノリティーとして成長した経緯、そして「インターセクショナリティー差別」について語った。第2次世界大戦中の日系米国人の強制収容によって傷ついた幼少期、心をうちを隠しながら演技の道を志した青年時代、伝説的存在となった俳優時代、LGBTQ権利活動、そして(強制収容所という)米国史上最も深い闇の時代を歩んできた人生を振り返る。
タケイさんは2005年、ゲイであることを公にカミングアウトした。カリフォルニア州で同性婚を合法化することを提案した下院法案「AB849」を当時のシュワルツェネッガー知事が拒否したことに対する反応だった。タケイさんは68歳だった。「若い頃に、俳優が同性愛者であることはハンデだと知った。同性愛者に仕事はこない。社会全体でタブーであり映画業界では避けられる存在だった」とタケイさんは語った。
実際、ハリウッドで人気の俳優が雑誌でゲイであることが暴露された後、すぐにスクリーンから姿を消したことがあるという。何よりもゲイであることを公にすることはタケイさん自身が幼少期から学んだ教訓であり、長く心の中に留めておく決意を形作った。しかし、それよりも先にタケイさんは自分が「人と違う」ことで孤立し疎外されることになる。
1941年12月7日、日本軍が真珠湾を攻撃した。「私は当時4歳だった。真珠湾を爆撃した人々と同じ見た目であることを知っていた。私たちは米国市民にもかかわらず、両親は道端でののしられ、さまざまなひどい言葉で呼ばれた。父の車には赤いペンキで『J-A-P』と描かれていた。日系米国人にとっては恐ろしい時代だった」とタケイさんは振り返る。
真珠湾攻撃から2カ月後、ルーズベルト大統領は「大統領令9066号」に署名した。この発令により12万人以上の日系米国人が収容されることになる。タケイさんは幼かったが、自身ときょうだいが感じた恐怖を覚えている。ライフルと銃剣を持った兵士が階段を上がりタケイさんの家族を銃口で脅し、家をそしてそれまでの生活を捨てるように強制したという。
タケイさんは、これらの出来事をこれまで何度も伝えてきた。収容所での暮らしぶりは生々しく細部にわたる。それは、数カ月間馬小屋に滞在しなければならなかった時の母が流した涙、最初の収容所である「ローワー」という言葉を兵士が発した時の喉の鳴るような音、そして不当に収監されながらも、毎朝米国に忠誠宣誓をすることの皮肉な痛みだった。
さらに屈辱な体験はそこで終わらなかった。収容からわずか1年足らずで、米国政府は悪名高い米国への忠誠を問う調査を実施した。収容された人々のジレンマを語りながら、タケイさんはこの質問への嫌悪感を隠そうとしなかった。 中でも二つの質問が多くの日系米国人を不忠者と見なす原因となった。「第27問」は、収監された人々に政府のために武器を持つボランティアになることを申し出るよう求めた。多くの収容者は収容所で家族や小さな子どもがおり、家族を残していくことはできなかった。そして「第28問」は、日系米国人が米国に忠誠を誓い、日本の天皇に忠誠を捨てるかどうかを尋ねた。この質問は天皇への既存の忠誠心を前提としている。 つまり、「第28問」に「はい」と答えることは米国市民としてそれまで考えたことすらなかった天皇へ忠誠を告白することを意味し、一方、「いいえ」と答えることは米国への不忠誠を意味するのである。
「これは勝ち目のない質問だった。『いいえ』と答えても『はい』と答えても意味がなかった。私の両親は2つの質問に『いいえ』と本音で答え、そのため不忠者としての烙印を押された。『ノーノーズ』だった」とタケイさんは語った。
タケイさんの家族は最終的にトゥールレイクに移された。有刺鉄線のフェンス、機関銃で守られた監視塔、そして数ダースの戦車が思い出としてよみがえる。一家は他の「ノーノーズ」たちと一緒に46年までそこに収容されていた。
戦後、収容所から解放されたものの、一家は困窮していた。タケイさんは8歳。まだ対日本人への感情は冷たいものだった。「子どもの頃、自分が他の米国人とは異なっていることを自覚していた」とタケイさんは振り返った。「戦時中に日本人と同じ見た目で市民とは違うと収容された。しかし成長するにつれて、私にはもう一つ他の人と異なることがあることに気付いた。それは男の子に惹かれていることだった」。
タケイさんは、子ども時代に相手の明るい笑顔や長いまつ毛に抱いた恋心を思い出した。自分が他の男の子と異なることを早くから知っていた。戦後、日系米国人に対する憎悪を理解していたものの、思春期を迎え、自身の違いに気づきより恐れを抱くようになったという。
「ある男の子が本を胸に抱えちょっときどったように歩いていた。彼はオカマと呼ばれ殴られていた」とタケイさんは思春期の出来事を振り返った。「そのような人々に対する社会的な偏見があることを知っていた。私は民族的な違いで不当な扱いを受けたがそれに対して何もできなかった。しかし他の男の子への気持ちは隠すことができた。だから普通の男の子と同じように振る舞った。私の家族を収監した理由となった見た目は隠すことができなかったが、心や感情はうまく秘めることができた」
タケイさんは、同年代の他の男の子を意識的にまねる努力もした。女の子について話し女の子を好きになる一般的な男の子になるように最善を尽くした。「社会的な規範に影響されながら成長したが、心の内を隠すことで自分を守ることができる」とタケイさんは語った。「そして私は若くして俳優になった」。
苦しい胸の内を秘めたタケイさんが見つけた唯一の希望は、演技への情熱だった。カリフォルニア大学バークレー校で建築を学んでいた時、タケイさんの父親は映画「ロダン」の吹き替えの仕事があることを教えてくれたという。これがタケイさんにとって初めてギャラをもらった演技の仕事となった。中国系米国人の俳優でスクリーン・アクターズギルドの創設メンバーであるキー・ルークさんと共に声の吹き替えを担当したタケイさんは「彼と一緒に仕事をする機会に恵まれて最高だった。何と言っても、チャーリー・チャンシリーズの『ナンバーワン・サン』で知られたキーに称賛されたことで心が躍るほど興奮した」と言う。
その後、タケイさんは父親を説得してニューヨークのアクターズスタジオで学びたいと思うようになった。マーロン・ブランドやモンゴメリー・クリフ、ジェームズ・ディーンの偉大な俳優たちと同じようになりたいと考えていた。タケイさんの父親はアクターズスタジオでは修了しても卒業証書や認定書が発行されないとし、代わりにカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の演技プログラムに行くよう提案してくれた。そして、さらに学費を支払う手助けも申し出た。こうしてその夏、タケイさんはUCLAに転入した「父は偉大なビジネスマンだった」とタケイさんは笑う。父親について語る時、タケイさんは少し言葉を詰まらせ、そこには尊敬と崇敬がにじみ出す。「父親を愛していた。私にとっていろんな意味でヒーローだった。父のおかげで今の私が形作られた」。
タケイさんは、父親に自身の性的指向について生涯伝えることはなかった。「父を愛していたからこそ、私が同性愛者ということを理解してもらうのは非常に困難だと感じた。父はもうこの世にはいないが、もしも伝えていたらどうなっていたかと興味はあるけれど」と静かに語った。
タケイさんに若い世代にどのようなアドバイスをするかと尋ねると「自分をよく知っているのは自分だけ。方向性や夢など、重要でデリケートなトピックについてアドバイスするほどではない」と非常に謙虚な答えが返ってきた。
「皆それぞれ唯一無二の存在だ。私は自分の人生において起こった具体的な課題や問題に向き合ってきた。皆もまた、自身の人生に関わる事実を基に決断しなければならない。私は自分の人生とそして自分の全ての欠点にも目を向けている。そこには父への愛も含まれているだろう。それはおそらく父を十分に愛することができなかったり、信頼して心を開くことができなかったりしたことかもしれないと思う」
