「出世の野心はまったくなし」
アジア系社会の「親善大使」に
警察学校を卒業し、晴れて警察官の道を歩み始め「その頃はまさか、副本部長になるとは夢にも思わなかった」と、今でも信じられないという。巡査からスタートしたキャリアは、さまざまな役職を歴任し、才能を発揮。レイプ犯罪を取り締まる、おとり捜査や麻薬捜査部、交通部では事故調査班、機動隊に配属されては白バイに2年乗った。転勤で各署を回り、ワッツ地区ではコミュニティーとの交流に努め、自身が提案したプログラムで、夜間のバスケットボールの試合は、十数年経過した今も続いており、誇りに思っている。
誠実で、責任をもってこなす仕事ぶりが評価され、栄転に次ぐ栄転の出世街道を歩んだ。出世の野心について問うと「まったく持っていなかった。昇進は、試験に通れば自然に起こるもの。その繰り返し」と淡々と話すが、わずか9人(当時)という副本部長への昇格は、格別だったという。
ハラ氏が採用された1980年当時は、全警察官7000人のうちアジア系はわずか66人だったという。だが、アジア系住民の増加により、現在は1万人のうちアジア系は850人となった。こうした時代の変化に対応し、ハラ氏は当時のウイリアム・ブラトン本部長(現NYPD本部長)から警視、そして副本部長に登用された。
最大の事件はLA暴動
教訓生かし、市民と対話
警察官という職業についてハラ氏は「とても危険で、勤務日そして、早朝、深夜勤務など時間が不規則で、非番の時も急きょ呼び出されて大変だ」と説明する。警官志望の若者には「両親とよく相談してから決めた方がいい。大変な仕事だけど、やりがいがある」とアドバイスするという。
在職中は「できる限りの力を尽し、できる限りの力で人々を助け、時代に合わせた変革に努めた」とし、さまざまなアイデアを提案し組織の改革も行った。警察学校の基礎訓練プログラムが時代に即したものではないと判断し改正した。LAPDが現在使用するLEDのフラッシュライトのデザインはハラ氏が行った。9・11同時テロ後は、爆弾処理班に属し、忙しく神経を尖らせる日々が続いたという。そこでは、全米でNYPDに次ぐ、テロ対策科の設置に尽力した。
事件の収拾後、LAPDは組織の体質改善に努めたといい「LA暴動を教訓にし、各コミュニティーの団体に対して扉を開け、警察組織の透明性を示した。それまでは『話はしない』などと高慢だったことを反省し、市民の声に耳を傾けるようになった」「変革により市民から信頼を得て、警察官が『卑しい』と思われなくなったのがいいこと。各コミュニティーも努力し、あのような悲劇が起こらないように、強固な関係を築こうと各警察署を訪れ、われわれと対話するようになったのが、すばらしい」と話し、防犯は市民と警察が一体となって行う重要性を強調する。
ここ数年、全米で起こる白人警官によるアフリカ系住民に対する暴行や射殺事件について、ハラ氏は「なぜ起こるのか、分からない」と、述べるにとどめた。
ハラ氏によると「LAPDは、各階級にさまざまな人種の警官やスタッフを配しているので、市民との人種間摩擦が起こりにくい」とし、異人種間で市民と警官による対立が起こったオークランドやサンフランシスコ、ニューヨークなどの大都市とLAの違いを強調する。LA暴動の教訓が生かされている表れとして「今では警官が、感謝祭の日に市民に七面鳥を配っていて喜ばれている」「だが、市民とのこのような保たれた調和を破壊しようとする組織が多く存在するので、警察が防がなければならない」とも警戒する。
逮捕については「何人捕まえたのか、数えたことがないので分からない。数の問題ではなく、逮捕という身柄を拘束する手段は、パートナーと協力して、容疑者を人間として尊重しながら、感情を出さずに常にプロフェッショルな仕事に徹すること」と説明する。「容疑者から、『あなたは、今まで逮捕された中で最高に優しいコップだ』と、よく言われた。そういう時は、プロフェッショルな仕事ができたと、うれしく思った」
勤めた35年という年数は「長くもなく、短くもなく、ちょどいい年数だった」。公務を通し「合衆国大統領(ビル・クリントン氏)や政府の高官、各組織の高位など、多くのすばらしい人物に会い、とてもいい経験ができた。仕事は全力を尽くしたので、後悔はない。引退した今は、ゆっくりと休むだけ」
「奉仕に情熱を傾けたい」
出馬の予定、今はない
500人が祝賀、引退の花道を飾る
ロサンゼルス市議選(第9区)に2年前、立候補した。その理由は「警察官の次の公務にぴったりと思ったから」と話す。落選し「また出馬するのか?」と、よく聞かれるという。だが「選挙運動は、とても大変だとわかった。妻のゲイルも疲労したので、今はその気持ちはない」。故ダニエル・イノウエ上院議員からも「テリー、もう1度出るべきだ」と励まされたといい「イノウエ議員は、日系人議員の数を増やすことで、日米の関係をより強くすることを考えたのだろう」と述べ、同議員の遺志を受け継ぐのは、まだ考えられないという。
現職中は、テレビ、ラジオ、雑誌などのインタビューに応えたほか、講演はUSCなどの教育機関やその他さまざま団体に依頼され、プライベートの時間を割いてまでも、こなしてきた。何1つ断ることはなかったが、出版の話だけは乗る気はなく、今後も自叙伝は拒むという。
18日にバーバンクで開かれた引退パーティーには、同僚やボランティア仲間など約500人からスタンディングオベーションを浴び、花道を飾った。参列者は、ハラ氏の「偉くなってもおごらない」「人格者」「とても優しい人」「公務員、警察官の鑑(かがみ)だ」など、人柄に惚れ込んだ人ばかりだった。
あいさつに立ったハラ氏は「LAPDという合衆国の最高の機関の1つで働くことができた。警視になる夢を描いたが、さらに上のランクに上がりとてもラッキーだった。いい仕事をする同僚に恵まれ、最高の公務をこなすことができ感謝したい。やり残したことはなく、35年間の私の警察官人生に悔いはない」
2月に出血性脳卒中を患い、17日間入院したことをこの日、初めて公の場で明かした。人口の1%という手術を要する先天性の動静脈奇形と診断され、闘病生活に入るという。病気を克服する強い意志を示し「神様が第2の人生を与えてくれた。コミュニティーでのボランティア活動に情熱を注ぎたい」と、意欲を述べた。ハラ氏は、日系社会を中心に二世週ファンデーションや南加日米協会、米日カウンシル、日米文化会館、ゴーフォーブローク財団など、さまざまな団体に属し要職を務めている。「人生の第2幕」を上げるハラ氏は、衆望に応えて、LAPDで指揮したようなリーダーシップを発揮するだろう。