サンタモニカ校で11年間の日本語学習を終了した坂ノ上礼さんは、卒業に際し感じたことを作文にまとめた。あさひ学園で得た宝は「絆」だと語る。それは友人との絆でもあり、日本語学習を支えてくれた両親との絆でもある。
同じくサンタモニカ校の幼稚部から進み、このほど小学部を卒業したレオン・ノーブルさんは、卒業文集のために書いた自身の作文「21歳のノーブル」を提供した。日本語、スペイン語、英語、フランス語を自在に操るノーブルさんは「将来の夢」について簡潔に、読みやすくきれいな文字で表現している。
サンタモニカ校の幼稚部を出て、その後サンゲーブル校に6年間通った加藤弥光(みひろ)さんは、卒業生を代表し答辞を述べた。加藤さんの授与された卒業証書の番号は「7777」。小学部最後の日に特別な思い出がまた一つ加わった。
【麻生美重】
「あさひ学園卒業に際し思うこと」
サンタモニカ校高等部 坂ノ上礼
私はこの春、9人の仲間と共にあさひ学園サンタモニカ校の高等部を卒業しました。気づけばあっという間に、私達の長年続いたあさひ学園の生徒としての日常が終わりました。次に土曜日が来たとしても、私達があの学園で授業を受けることはもうありません。そう思うと、私はたまらなく胸が痛くなりました。
この痛みとは、一体何なのか。私は少し時間をかけて考えてみました。
私にとってこのクラスと教えてくださった先生方は、一つの家族のようなものでした。現地校だと毎年クラスが変わったり、取る授業によってクラスメートが変わるのに対して、ここは変わらない居場所であり続けたことに気づいたのは、つい最近です。それぞれが自分らしくいられた場所、そのおかげで大きく成長できた場所でもあると思います。
だからこそ、あさひ学園という一つの『日常』が卒業によって終わりを迎えると、改めて、自分達の時間は一方向にしか進んでいないことを思い知ったのです。
この先、現地校を卒業する時も。いつか、就職する時も。
そういった環境の変化の度に日常は変わってしまい、戻れないまま時間はひたすら進んでいきます。それは残酷なことに思えるかもしれないけど、人生には、日常が目まぐるしく変わる中、変わらずに最後まで残ってくれるものがあると知りました。それは性格であったり夢であったり思い出だったり。
あるいは、絆。
毎週土曜日に学び合い、励まし合い、笑い合ったことから築かれたこの尊い『絆』こそが、私がこの11年間であさひ学園から得た宝であり、そしてこれからどれだけ日常が変わっていこうと、変わらずにいてほしいと、切に願うものなのです。
「あさひ学園の卒業式を迎えて」
サンゲーブル校小学部6年 加藤弥光
2018年、3月10日。この日を待ちきれず、毎週カレンダーを見て残りの土曜日を数えていた人、何となくこの日を楽しみにしていた人、また、この日が来てほしくなかった人。卒業の日に対する気持ちは人それぞれだと思います。
私は、あさひ学園を、サンタモニカ校にできたばかりの幼稚部から始め、小学部でサンゲーブル校に入学しました。今日までの7年間の日々を振り返ってみると、笑顔になる思い出や、はずかしくなる思い出が、頭の中にいくつも浮かんできます。あさひ学園に通うことに対する気持ちも、当然ながら年々変わってきました。今では、好きとか嫌い、ということではなく、自分のためになる選択だと思っています。
私は、あさひ学園に通えることは、とても特別な事だと実感しています。その理由の一つとして、あさひ学園を続けていたおかげで、アメリカ生まれの私が、毎年夏には「日本の小学生」になることができたからです。体験入学先の天明小学校の同級生と一緒に宿泊学習に参加して、砂浜で海水から塩を作ったり、ミニバスケットボールの試合に出たり、お友達とプールで遊んだり、時にはけんかをしたり…。あさひ学園に通っていたおかげで、日本の小学校で、楽しい思い出をたくさん作ることができました。日本語が、読める、書ける、話せるという特技は、これからも、私にたくさんの特別な体験をさせてくれることでしょう。
「21歳のノーブル」
サンタモニカ校小学部6年 レオン・ノーブル
小さいころからニューヨークに住むと決めていました。ユニオンスクエアの活気が大好きでした。メトロの駅でミュージシャンがいろいろなパフォーマンスをしていたのが印象的でした。
10年後の私はニューヨークの大学院に進んで映画監督、または国連の大使になる努力をしていると思います。世界中の国に行きたいです。比較文化、音楽、国際関係のお仕事で私の四カ国語を活用できるお仕事を目指しています。
10年後の私はさまざまな夢と希望を叶え始めているところです。そして、21の私は毎週日本語学校のない土曜日を楽しんで過ごしているのは確かです。
