ロサンゼルスに残る数少ない和菓子屋のひとつ、「ちからもち」の34年の足取りを取材した。 【麻生美重】
和菓子作りすべてあんばいで
手間惜しまず、原料大切に
午前2時半。ガーデナのウエスタン通りにある和菓子屋「ちからもち」の製造所に灯りがともり、オーナーの小池正文さんがスチーマーを温め始める。この蒸し器に十分な蒸気が上がるまで小池さんは機材の並ぶ広い作業場にひとり。半時間ほどして餅を蒸す準備が整うころ、次の職人がやってくる。蒸し上がりの時間は種類による。一つが蒸しあがるころ、もうひとりが出勤する。
和菓子だけで日に300個。あんパンや栗まんじゅうなどの焼きもの類、赤飯や団子、おはぎを入れれば、さらに100個以上が上乗せされる。
和菓子の店舗販売だけなら午前5、6時からで間に合う。だが日系マーケットなどへ卸販売のため、出荷のトラックが来るのに合わせ早い時刻から製造し始めるのだという。小池さんは「かつてLAに5軒あった和菓子屋が3軒になった。そのうち卸をするのは2軒」と現状を語る。
衣枝さんが一つひとつ手作りするという和菓子は小ぶりで上品。デザインの繊細さ、デコレーションの美しさや自然な色合いは、日本人として違和感なくすっと受け入れられる。「大きさは日本製の小箱に収まるサイズに。あまり大きいとあか抜けないので。決してケチっているわけではないですよ」衣枝さんは笑いながら念を押す。
日本から取り寄せるのは箱だけにとどまらない。長野県の寒天は近隣諸国産のものでは代用できないほどの品質の良さ。和菓子用の特殊な装飾材料もすべて日本から。
納得のいく材料へのこだわりは、当地で仕入れる砂糖や小豆(あずき)、もち米や上新粉(米粉)などにも現れる。
既成の餡は使えない。「豆を炊いて、小豆から出る渋をとる。その渋を赤飯に使う。最初から(順番に)しないとできない。体がそういうサイクルになっているので。(既成品を使う)途中の行程からだと、どうしたら良いか逆にわからない」
ただ、餡に大納言(小豆の種類)は使えない。「3倍くらいの値段をつけないと採算が合わない」と二人は笑う。
先代から受け継いだ味に仕上げるための工夫はどんなものだろう。「手間を惜しまないことと、あんばいでやること。洋菓子は温度や分量をきちっと測るが、和菓子はどちらかというとすべてがあんばい」。日本料理にも通じるかとの問いに衣枝さんは「そう思う」。「季節や温度で仕上がりが違う。引いた粉も水の吸いかたが日によって違う。毎回、違う。味が毎回違うから飽きない」と衣枝さん。「だからお客さんも飽きないのでは」小池さんも同意する。
原料を大切に使う。手間を惜しまない。「自分たちが続けて行く限り、このスタイルは変わらないと思う」衣枝さんは力を込めた。
「兄は腕のいい職人だった」
丸岡力さん、85年に独立創業
ちからもちの創業者は衣枝さんの実兄の丸岡力さん。丸岡さんは熊本県で中学校を卒業後、和菓子職人になるため15歳で関西へ出た。妻の陽子さんは「昔の弟子入りは子守りもする丁稚(でっち)奉公のような修業。そこを出た後は茶の湯の盛んな地方を周り、その地域に伝わる和菓子を学ぶ。畳の上に座ったままヘラひとつで和菓子を作ることもあった」と当時を語る。
10年ほど日本各地で働き腕を磨いたころ、職人を探していたLAの和菓子屋「三河屋」に誘われ来米。1971年から2年ほど続け、契約終了とともに故郷に帰った。73年、今度は熊本市内で自分の店「ちからもち」を開店した。77年になり再び三河屋から呼ばれた丸岡さんは、陽子さんや2人の息子を連れ、再びLAに降り立った。今度は永住を目的にして。
職人気質で「和菓子のことだけを考えながら生活していた」丸岡さんは、お酒を少量飲むことが唯一の趣味だったという。
茶道関係者からの注文も多く受けるようになった。若い店を応援するような気持ちからか、どこの教室も同店に注文してくれたのだという。「兄は腕のいい職人さんだった」。衣枝さんはしみじみと語った。
店主、丸岡さんの急死
職人不在でさらなる窮地に
店は80年代後半のバブル期を経て順調に売り上げていた。90年にLAに移り住んだ衣枝さんは、主婦として暮らすかたわら兄の店を手伝っていた。日本経済が傾き、駐在員が帰国していった97年。店主の急死という不幸が店を襲った。丸岡さんから急きょ店を引き継いだ陽子さんは、20代だった息子2人を職人として雇うことに。店主と職人を同時に失う事態を何とか切り抜けたかに見えたが、10年近く経ったころ、店は2度目の窮地に立たされた。
慣れない世界で頑張ってきた息子たちが相次いで店を去り、職人不在の状況に。
後継者は側で兄の仕事を見てきた衣枝さんのみ。「従業員みんなが続けるというので私が引き継ぐことにした」。店を閉めるわけには行かない。従業員にも自分にも、養うべき家族がいるからだ。
こう決断できたのには夫の小池さんの存在も大きかった。和菓子とはまったく縁のない生活をしてきた小池さんは結婚前、丸岡さんの友人として店に出入りしていた。元はVIP専門のリムジンドライバーだった。店を継いだ衣枝さんが体を壊したことと、自身も腰を痛めて運転手の仕事を離れたことから、家族の手伝いを少しずつ始めた。やがて和菓子屋が本業になった。「目まぐるしかった」。2人は当時を思い起こす。きちんと店を継いだのが2009年。この時、さらなる困難が待ち受けていようとは思いもよらなかった。
銀行残高、わずか1ドル
借金「歯を食いしばって返済」
「2009年、店はつぶれた状態だった」。今でこそ、何気ない口調で語ることができる。だが、ここへたどり着くまでの日々を2人が忘れることはない。
「店を継ぐまでは従業員だったので(店の財務状況を)知らなかった。蓋を開けてみたら大変なことになっていた」と衣枝さんはいう。会社の銀行口座には残高1ドル。取引先などを含む多方面から経済的に援助してもらう窮状だった。「店を継いでいた甥だけがこのことを知っていて、義姉を含む周りは誰も…」
負債のある業者には払っていかなければならない。店は開け、従業員5人も雇い続けた。破産申請してしまえば返済は不要だ。しかし「そんなわけにはいかない」(衣枝さん)。「もしかしたら(店を)潰さなければいけなかったのかもしれない。だけど日本人の気質として無理。頭を上げて外を歩けない。(取引先から)分割でもいいからと言ってもらい、歯を食いしばって返済した」
そんな時、義姉の知り合いを通じ会計士の栗田清さんを紹介してもらった。「栗田さんに話をしたら『建て直しを手伝ってあげようか』と」。経営の仕方から帳簿のつけ方、コンピューターの使い方までいろいろと教わった。ラップトップでもいいから買うように勧められ、すぐに購入した。「それまでコンピューターは使っていなかったので、スイッチの入れ方から親切に教えてくれた」。
粟田さんに導かれ少しずつ赤字を解消した。ようやくプラスになりかけた2013年10月、ちからもちにとってショッキングな出来事が―。
経営危機3年、乗り越える
「人に恵まれここまで来た」
店の経営がプラスになりかけたその月、栗田さんが急逝した。「ショックでショックで」。何も恩返しできないままだった。「なおさらつぶすわけにはいかない」衣枝さんらは心に誓った。
秋に好転した店の経営状況は翌年からさらに良くなった。しばらくすると新しい機械を買えるところまで来た。長く大変な3年間をようやく乗り越えた。
その間、エルサルバドル人の従業員一家は皆ついて来てくれた。和菓子作りは特殊な仕事。彼らが転職することもまた難しかった。
働き始めてもうすぐ1年になるメキシコ人の男性については「まじめでよく働く。日本人以上に日本人らしいところがある。遅刻などしたことがない」と小池さんは感心した表情を見せる。
「いろいろと大変だったけれど、人に恵まれてここまで来た」。道のりをあらためて振り返り2人はうなずき合った。
SNS普及で客層広がる
ちからもち、地域に浸透
ここ数年、ちからもちの客層に変化が起きている。日本人や日系米人が減り、フィリピンや東南アジア系の客足が伸びているのだ。「変化は2、3年前から。SNSの影響があると思う」と衣枝さんはいう。写真をSNSでシェアする世界的な広がりが、ちからもちのビジネスにも変化をもたらした。最近ではSNSに載った同店の和菓子の写真を見て、アジア系以外の客も訪れるように。ホリデーシーズンなどのギフト用にと注文が相次ぐ。
店側もそんな客層の変化に伴い、味やデザイン、彼らを惹きつけるカラフルな色合いを考えるようになった。豆や餡を苦手だという客には、まずフレーバー餅から。次はいちご味の餡入りを勧めるなどしてみる。「まずはお餅のことをわかってもらう」ことが先決と考える。
こうした店側の努力が実り「開店2時間で売り切れることもよくある」(小池さん)というほどに、今や同店の和菓子は地域に浸透している。
職人の葛藤も「ベストを尽くす」
地域の期待に応え、店を守る
当地の和菓子屋の数が減っていく中で、店を続けてほしいという地域の声を時に重圧のようにも感じる。「それに耐えて期待に応えていけるか、不安がなくなることはない」と衣枝さんは吐露する。
そんな職人の不安とは反対に接客に立つ陽子さんは「義妹の作る和菓子は、夫(の丸岡さん)が作っていたものよりも色が明るい。デザインも凝っていてきれいだし、種類もずいぶん増えた」という。 陽子さんは客から「職人は女性か」と問われることや「デザインがきれいになった」などと感想を伝えられることもある。「店の中で力仕事も含め、全ての工程を知っているのは彼女だけ」。衣枝さんのこれまでの努力が並大抵のものではなかったことを陽子さんは義姉として一番よく理解できる。
特別なお茶席に出される「上生菓子」は和菓子の中でも高級品と称される。衣枝さんの元には、世界的に有名なレストランの会長から自宅用にと「上生菓子」の注文が届く。
お茶の師匠が本を持参で訪れ、「これを作って」とリクエストすることも。そのようなときも常に「ベストを尽くさせていただく」。
師匠である丸岡さんの37年のキャリアに衣枝さんが追いつくころ、ちからもちの和菓子はどんな変化を遂げ、何を守り続けているだろう。