代々木のオリンピック選手村で、外国からの要人に選手に提供する料理のメニューを説明する帝国ホテルの村上信夫料理長(中央左)と日活国際ホテルの馬場総料理長(同右)。左奥が佐藤さん
 「シェフ・サトー」で日系社会では、その名が通る元フレンチシェフの佐藤了さん(80)。来年に迫った母国開催の東京オリンピック・パラリンピックに対する思いは人一倍強い。料理人として携わった1964年の東京大会に次ぎ、2020年大会のボランティアに応募し、人生2度目の檜舞台に大きな夢を膨らませる。25歳だった若者が、オリンピックで出会った本場欧州各国のお抱えシェフから刺激を受け、料理修業へと欧州へ旅立ち、世界の扉を開くことになった当時の記憶を蘇らせ「もう一度、東京オリンピックで料理を作りたい」と熱く語る。【永田 潤】


「佐藤、東京オリンピックに行け」
日の丸背負う誇りと重圧

 料理人になってまだ4年やそこら。厨房では誰からも信頼を得ることのなかったある日突然、総料理長から「佐藤、東京オリンピックに行って来い」。1964年当時、勤務先の「丸ノ内ホテル」の支配人が日本ホテル協会の役員だったことから、佐藤さんに白羽の矢が立った。大抜擢に「え?」「ビックリした。何で僕が?」と信じることができなかった。「やったー」と、こみ上げたうれしさの半面「ちゃんと勤まるのかな?」と不安が交錯したが、頼もしい上司に快く送り出され「心強かった」

佐藤さんに贈られたオリンピック選手村の給食業務要員の委嘱状
 職場からは2人派遣され、その1人。入社して半年ほどだったため、先輩上司からは「あの佐藤が?」「何であいつが?」。50年以上経った今でも、日本に帰国した際は、うらやましがられるという。選ばれた理由を自分なりに考え、2点思い浮かんだ。「当時の職場を紹介してくれた人の信頼が厚かったか?」「自分が抜けても影響がないからか?」
 開幕の10月10日の3カ月ほど前にオリエンテーションがあった。その後、料理の写真が添えられたメニューのハガキが送られ、裏にはぎっしりとレシピが書いてあった。プレッシャーを覚えながら猛勉強が始まった。五輪はボランティアスタッフとして採用され、勤務先から給与が支払われた。
 全国の西洋料理界からエキスパート約340人が集められた。若い人が多く、すべて男性。帝国ホテル、第一ホテル、ホテルオークラ、パレスホテルなど、一流レストランからの精鋭部隊。日の丸を背負う「日本代表」の一員として、誇りとともに重圧を感じた。選手はまだ誰も来ておらず、7月に最初の外国選手が姿を見せた後、9月に入って各国が続々と入村すると、「世界最高の料理」を目指した男たちの士気は高まった。

レシピ通りの調理は困難
世界のメニュー、和食は不人気

 佐藤さんの持ち場は、代々木にあった選手村内の食材サプライセンター。大まかな仕込みをした食材を、三つあった「桜食堂」と「富士食堂」「女子食堂」の各キッチンに送る仕事。佐藤さんは同センターのシェフ馬場久さん(日活国際ホテル総料理長)に付いた。
 作る料理は、勤めていたホテルで普段から出していたメニューばかりだったため、驚きはなかった。だが、アスリート用の食事だけあって、栄養やカロリーが計算されており、レシピ通りに作る必要があった。「レシピなんかそのころはなかった。料理は見習いの時から、先輩から教えられて習い、覚えた時代だった」といい、調味料は目分量、体でさじ加減を覚え込んだという。「オリンピックで初めて分量をちゃんと計った。レシピ通りの仕込みは慣れるのが難しく、覚えるので精いっぱいだった」

1977年にパサデナで開かれたフランス料理のコンクールで優勝したシェフ・サトー(右)
 94カ国からの選手と関係者、1日約7千人分の食事をまかなう大量の食材を毎日捌いた。食習慣と好みが異なるため各国の代表料理に加え、メニューは幅広くサラダにパン、スープ、シチュー、くだものまで、それぞれ数種類用意され「世界のいろんな国のメニューが揃って、見ていて気持ちよかった」
 一方のホスト国の日本食は「ご飯とおにぎり、みそ汁、漬け物、天ぷら、トンカツ、カレー、どんぶり(玉子、親子、牛)、焼き魚くらいで種類は少なかったように覚えている。うどんはあったかな? ラーメンはなかったと思う」。今でこそ世界遺産入りして人気だが「まだ世界に認められなかった時代だったので、外国選手はあまり食べなかったと思う」
 料理は無料ではなく、1食につき米ドルで6・50だった。選手は配布された食事券を利用し、バフェと事前に注文すると特別メニューを選ぶことができた。
 勤務していたホテルと違ったのは「コストを気にせず、いい材料をふんだんに使えたこと」。肉は、ビーフ、チキン、ポーク、ラムなどで、鹿などのジビエはそのころはまだなかった。魚介類は魚がヒラメ、スズキ、タイ、サーモン、ツナ他、エビ、イカ、大小の貝も豊富に用意された。「食材は新鮮で、納める業者もプライドを持って、最高の質の材料を提供してくれた。そのころの日本人はまじめで、みんな料理に前向きで、さぼる人はなく、楽しくクックできた」「厨房には人がいっぱいいて人件費などの心配はなく活気があった」といい、これもホテル勤めと異なった。

リラックス、自由な雰囲気の選手村
「外国選手と話せばよかった」

 選手村は、広いため自転車に乗って移動した。巡回バスは手を挙げれば、どこでも止まってくれ利用した。回りは、ほとんどが外国人だった。スタッフの選手に対する禁止事項はなかったため、選手と話すことも可能だったという。「機会があったけど、仕事が忙しくて集中していたので話さなかった。今思えば交流すればよかった。ちょっと後悔」。採用される際のバックグラウンドの調査はなく、マナーの教育も受けていない。入村時のセキュリティーは厳しくなく、選手村は張りつめた空気の試合会場とは逆に自由な雰囲気だった。
 日本は「鎖国時代」(佐藤さん)だったので、五輪の情報は新聞、ラジオ、普及し始めたカラーテレビしかなく少なかった。だから、どの選手が有名なのか、どの競技の選手かすら分からなかった。「『東洋の魔女』(女子バレー金)に会っていたかもしれないし、アフリカ人選手も少し参加していたのでマラソンのアベベ(史上初のローマ、東京五輪2連覇)も見たかもしれない」
 外国人選手は体が大きく、食欲は旺盛だった。だが、やはりスポーツ選手なのでまた、体重制限の競技もあるので、暴食する選手はいなかった。練習の合間などのひと時だったので、会話しながらリラックスして食べていた。閉会式が済んでも、選手の中にはすぐに帰国せず、2週間くらいは、選手村に滞在していた。
 五輪期間中はずっと仕事だったので、試合は生で見ることはなかった。だが、仕事の合間に同僚とカラーテレビで日本の活躍を見て応援した。日本が勝つと沸いたが「神永(柔道無差別級の銀メダリスト)が負けた時は、ショックだった。シーンとした」。オリンピックの期間中とその前後合わせて4、5カ月間働き「あっという間だった。みんな初めてのことで新鮮で貴重な体験だった」

欧州各国の料理人に憧れ
「世界を見に本場へ行こう」

 五輪では、フランス、ドイツ、イタリア、ハンガリーなど欧州各国は、日本人洋食料理人の腕前を認めておらず、お抱えシェフを連れてきていた。日本人料理人とは別のキッチンで働いていたため「どんな料理を作るのか、気になってしょうがなかった」。外国人は珍しい時代だったので近寄りがたかったというが「吸収してやろう」と思い立ち、邪魔にならない程度に見学させてもらった。さすがに試食までは、言い出せなかった。

1980年の世界料理オリンピック・ドイツ大会の団体で優勝した米国代表メンバー。右から3人目が佐藤さん
 欧州の料理人は、日本人に比べ体格が大きくて貫禄があり「日本人は必死になって作っているのに、あの人たちは、余裕があって自信を持って作っていた」と圧倒された。作り方は「われわれと根本的に全然違った」。ソースの作り方、煮込みの仕方、食材のマッチング、そしてワインを料理に使うことは当時の日本では考えられず、ショックと同時に憧れを抱き「本場に行かなきゃ。世界を見に行こう」と、欧州への料理修業を心に決めた。
 スイス、パリ、ロンドンで腕を磨いた後に渡米。ニューヨーク、シカゴ、LAの一流ホテルに迎え入れられた。80年の世界料理オリンピック・ドイツ大会では、米国代表の一員として団体と個人種目で金メダルに輝くなど、数々の権威ある賞を受賞。アーケディアに念願の店をオープンし、23年間地域に愛された。惜しまれながら店を閉めた。
 引退後は、妻芳江さんとともに主に料理ボランティアとして、東サンゲーブルバレー・日系コミュニティーセンターをはじめ、日系諸団体に属し奉仕にいそしむ。故郷栃木・大田原とウエストコビナの姉妹都市提携をお膳立てし、LA七夕まつりでは本場仙台との関係づくりに寄与、日米の橋渡し役に徹する。日本の被災地を慰問し、料理を通じた復興支援活動を継続する。

2020年開催決定に歓喜
「第2の人生の目標ができた」

 東京が2度目の五輪開催を目指して立候補した際に佐藤さんは「もし決定したら、もう1度料理で参加したい。そうなれば、人生で2回目の歴史的出来事。キッチンの設備やメニューを見るのが楽しみ。当時の同僚にも会えるかもしれない」と胸が高鳴った。「ボランティアができるのは、日本開催でしかチャンスはないと思う。自分は日本人だし、日本で手伝ってこそ意義がある」と祈った。
 東京招致委のプレゼンテーション(2013年)で、委員の滝川クリステルさんがフランス語で話した内容を佐藤さんはパリで暮らしたため理解できた。滝川さんが日本語で強調した「おもてなし」に対し「この言葉は日本独特で他国にはあまりなく、世界へ訴えることができた」と、期待を膨らませた。そして2020年は「トーキョー」と発表された瞬間「わー、決まった! バンザーイ! 第2の人生の目標ができた」と、昨日のことのように記憶に納めている。

人生の転機、東京オリンピック
「料理の奉仕で恩返ししたい」

 ボランティアに応募するため、五輪開催6年前の14年に問い合わせたが「まだ早すぎる」。次はその2年後に聞いたが、同じ返答だった。そして、ついに昨秋「年(高齢)で断られたら残念だけど一応、応募した」。経歴には1964年の東京オリンピックで調理スタッフを経験して、世界料理オリンピック米国代表で金メダルを獲得し「料理の知識があり、自信を持っている」と特技を記し、キッチン係を希望した。「今は、ただ祈るのみ。選ばれてもう1度東京オリンピックに関わりたい」と吉報を待つ。今年の抱負は「健康管理を徹底して、来年の東京オリンピックのボランティアに選ばれた時に備えたい」
 「今の自分があるのは、東京オリンピックのおかげ。感謝している。自分を育ててくれた母国日本と、郷里栃木から上京して育ててくれた東京、そして人生の転機となった東京オリンピックに料理の奉仕で恩返ししたい。自分は、やっぱり料理しかできない。料理は自分にとって天職。趣味。生き甲斐。人生そのもの」

東サンゲーブルバレー・日系コミュニティーセンターの活動資金集めのディナーショーを開いた佐藤さん。スタンディングオベーションを浴び、照れながら登場した(2015年1月)

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