まずは河辺の略歴を紹介しよう。1899年(明治32年)に大分県で生まれ、日本大学の学生時代に国本輝堂の名前で「熱心なる与太弁士」と自称し、青山館で無声映画の弁士としてデビューした。その後赤坂帝国館、新宿武蔵野館、丸の内邦楽座などで洋画専門の弁士として活動した。神田の東洋キネマでは徳川夢声、大辻司郎、松田翠声といった人気弁士と肩を並べて出演した。その傍ら映画作成にも乗り出し、「落ち葉の唄」の原作や、前田映画製作所による「歩み疲れて」と「青春序曲」への出演・制作を担当した。
1929年4月に帝国通信社特派員前田照男として渡米。ロサンゼルス到着直後に羅府新報を訪問し、弁士の国本輝堂であることを明かしながら、渡米の目的は南カリフォルニア大学で映画技術を学ぶことと語っている。30年8月に羅府新報の記者になり前田輝男と称し、同紙主催の映画会では弁士として活躍した。32
本職の映画については自作の「歩み疲れて」を1929年8月に富士館で上映しアメリカでの弁士デビューをした。34年には邦画上映専門の富士館の専属弁士になるが、翌年4月からは同館で上映される映画がすべてトーキーとなりお払い箱となった。その後は中西部各地での巡業上映会で弁士稼業を続けた。映画製作については、「悩ましき頃」(1929年、脚色・出演)、一世と二世が共同で制作したアメリカ初の日本語トーキー映画「地軸を廻す力」(1930年、脚本)、新作映画(1935年、監督)、聖林映画研究会の「伸び行く二世」(1936年4月撮影開始)への関与が確認されている。
さて、本題の日本語放送であるが、河辺のラジオ経歴は次の通りである。1930年に開始された河内一正が主宰する「日本人放送局」で、6月に映画物語で初登場した後、神田効一の後を継いでアナウンサーとなった。その後、31年12月から始まった羅府日本人会放送および32年2月の歯科医ドクター・コーエン主宰の杉町みよし(ソプラノ)の独唱番組のアナウンスを担当した。同年9月に開始された日本文化放送協会では放送経験者として協会幹部となりアナウンスに加えて、映画物語、ラジオドラマ(出演、演出)、広告宣伝に積極的に取り組み、主宰者の片腕として放送協会の屋台骨を支えた。このように日本語放送黎明期(れい
「前田君は白面の優男、新聞記者もやり、歯切れのいい江戸弁で放送にはもってこいの快弁、その調子はなお人々の耳に残っているはずだ」(藤岡紫朗「歩みの跡 北米大陸日本人開拓物語」)と日本語放送界で引っ張りだこであった理由がうかがい知れる。ちなみに、無声映画の弁士が日本語放送のアナウンサーになる例は、ブラジルやカナダでも見られる。
このように在留邦人社会におけるラジオや映画の分野で大きな足跡を残した河辺であったが、1938年に帰国することとなった。日本では母校の日本大学で映画技術を教えるとされたが、映画雑誌への寄稿帰国後の動静はほとんど伝えられていない。(日本時間⑤に続く)
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