20歳の豊田さんは、文子アンジーさんとクレイグさん(故人)のもとに生まれ、7歳から踊りを習い始めた。母は藤間流師範で勘須文(かんすあや)の名を持つ。祖母も民謡「寿の会」の会主、井本豊春寿として自ら社中を率いている。ヨチヨチ歩きを始めてからは、日系の各所で開かれる夏のお盆のほとんど全てに出向いたという豊田さん。「シエスタ祭り」を始めとする諸行事や、2018年に日米文化会館で行われた勘須磨師匠の百寿祝いにもシマハラさんと共に舞台に上がってきた。数年前に父を亡くしたが、つらい時期も周囲に支えられ踊りに打ち込んだ。現在はポリテクニック・ヒューチャー・アカデミーでビジネス・マネジメントを専攻中。音楽関係の仕事に就くことを将来の目標にしている。
19歳のシマハラさんは、日系の父クレイグさんとインドネシア人の母ロレインさんを両親に持つ。日本文化を深く愛する母の勧めにより8歳で日本舞踊の世界に。両親は免状取得に向け励む娘を全力で後押しし、この日もサンタモニカの自宅を提供して名取式を執り行った。高校在学時には米国の親善大使の一人に選ばれ、静岡県富士宮市を訪れたシマハラさん。フランスのノートルダム大聖堂では合唱にも参加した。卒業後はカリフォルニア大学バークレー校に進学し、オンライン授業を受けながらの一年だった。分子環境生物学を専門に学び、薬学の分野へ進む予定だ。
当初に名取式を予定していた年明けは、感染者数・死者数共にピークを記録したため諦めざるを得なかった。勘須都師範は「私が弱音を吐くようなことを言っても、おっしょさん(勘須磨師匠)は諦めない。あらゆる手を尽くそうと考え抜く」と振り返る。2人は課題曲「清元『名寄の寿』」を踊る様子を動画に収め、勘須磨師はそれを入念にチェック。その後、実技試験を師匠の立会いで行い、筆記試験も踏まえて合格となった。正規の試験とは大きく異なったものの、宗家の理解を得て全てを完了した。
やがてワクチン接種が広まり、全員が2回目の接種を終わらせると、ようやく名取式を行えるという空気が漂い始めた。勘須磨師の103歳の誕生日の前日に名取式を設定したものの、日本から船便で送られた免状が式の2、3日前まで届かず勘須都師範はヒヤヒヤし通しだったと言う。
名取式では形式として三々九度を行うが、コロナ禍において杯を回す行為は危険なため、宗家の許可を取り省略することに。また、師匠は起立して免状を渡すのが通例だが、勘須磨師が高齢のため着席したままで行われた。新名取の2人は、薄紫色と薄緑色の着物に黒の帯を締め、宗家からの免状を手に充実した表情で記念撮影に臨んだ。
豊田さんは羅府新報のインタビューに答え、次のように述べた。「17歳で名取を取得した母のように、私も名取を頂くことを目標に稽古に励んできた。それを達成した今は、これからが始まりという気持ちでいる。コロナ禍で思うように稽古ができず、とても時間がかかったし、正規の方法で試験が受けられなかった。それは仕方がないと思うしかないが、全ては何物にも変えられない貴重な体験だった。勘須磨師匠からは踊りに限らず、生きる上で大切なたくさんのことを学んだ。私とクリスティーンは103歳の師匠について稽古を重ね、宗家からのお免状を頂いた。本当にすばらしい気持ちでいる」
日本舞踊の名取とは、踊りだけでなく日舞に関する知識や作法なども身に付けているという証しで、平均で5年から10年程度の期間、真剣に稽古を積まなければ取得できない。今回、勘須磨師は50人目の名取を門下より輩出した。勘須都師によると「米国で50人の名取を出したという話は他に聞かない」。1人の名取を育てる期間の長さと日本以外の土地であること、さらにはパンデミックの状況下という不利益、これらをかんがみれば、50という数字への到達がいかに難しいかが分かる。103歳という年齢においてこれを成すバイタリティー。6月12日からまた勘須磨会の稽古が再開されるという。おっしょさんの「ハイッ、ハイッ」という掛け声が響く日も近い。【麻生美重、写真=トーヨー・ミヤタケ・スタジオ】