「100歳まで現役で花を作り続けたい」と語るアンディー松井さん
 みなさんはご存知だろうか。トレーダージョーズやVon’sなどで目にする蘭の花が、奈良県出身の日本人によって作られていたということを。北加サリナス在住のアンディー松井さん(76)は全米20%、加州50%のシェアを誇る世界ナンバー1の蘭生産者だ。4人いる子どもたち全員をハーバード大学に入学させたが、築き上げた1憶ドルにも及ぶ莫大な資産は子どもたちには一切相続させず、経済的な理由で大学進学が困難な地域の子どもたちに寄付。ひとり当たり4万ドルの奨学金を支給し、これまでに98人、およそ400万ドルの学資援助を行ってきた。「子どもたちの未来に大輪の花を」。サリナスの「花咲か爺さん」を紹介する。

サリナスにある総面積75エーカーの温室の上空写真
 ゴルフコースで有名なぺブルビーチからほど近いサリナスに蘭農園「Matsui Nursery」はある。
海からは冷たい風が吹き、カリフォルニアの太陽の光を一身に浴びる地形は花のほか野菜などの栽培にも適している。
 農場の総面積は75エーカー。東京ドーム6個分に相当し、蘭の栽培面積は世界1の規模を誇る。広大な敷地内には300種類以上の蘭が栽培され、温室の中は蘭の艶やかな香りが充満する。


「カリフォルニアの百姓になる」

 1935年、松井さんは現在の奈良県五條市で生まれた。農家の長男だった松井さんは当然家業を継ぐと思われていた。高校卒業後、23歳で結婚、すぐに娘が生まれるが、当時は農業にまったく希望がもてなかった。
 61年、人生の転機が訪れる。新聞の農業実習生を紹介する記事に目がとまった。アメリカ農業者団体が日本の農家をカリフォルニアに招き、1年間の研修プログラムを行うという。松井さんは迷わず米国行きを決意。25歳の時だった。
 カリフォルニアで目にしたのは菊の鉢植え栽培。日本では菊を畑に植えて栽培するのが一般的だった。これに目を付けた松井さんは、技術を学ぶため栽培農家まで片道2時間の道のりを自転車で通った。
 「カリフォルニアの百姓になる」。1年間の研修後、松井さんの夢は確固たるものになっていた。
 帰国後、両親にカリフォルニアに戻る決意を告げるが猛反対を受けた。家父長制度が根強い当時の日本で、長男がその立場を放棄することは一大事件だった。
 断固として決意が揺るがない松井さんを前に両親は勘当を言い渡す。母は松井さんが家を出る時、涙ひとつ見せず静かな声で告げた。「どんなに辛いことがあっても2度とこの家に戻れないことを忘れるな」。胸を刺す強烈な言葉は、生涯決して忘れることのできない言葉として胸に刻まれた。


片道切符で太平洋を渡る

渡米した当初の松井さん。すべてはここから始まった=1961年、25歳の時

 小雨降る中、1万円札1枚を握りしめ、片道切符で単身カリフォルニア行きの船に乗り込んだ。カリフォルニアの地を踏み「負け犬にはなれない」と心に誓った。
 到着後、菊の栽培農家に時給85セントで雇われ働いた。1ドル360円の時代、1週間働くと当時のサラリーマンの平均月収に相当した。
 2年後には妻と子を呼び寄せ、永住を決意。夫婦共働きで少しずつお金を貯め、70年にはサリナスに50エーカー(約20ヘクタール)の畑を買った。
 まもなく松井さんは「32エーカー(約13ヘクタール)の温室を10年で建て、世界一の規模の菊栽培をする」という事業戦略をたてた。周囲は無謀だと笑ったが、銀行は16万5000ドルを無担保で融資。10年後には、予定通り計画を実現させた。


成功するが労組に乗っ取られる

 アメリカ人の好みに合わせ大ぶりの花を咲かせる大輪菊の栽培をはじめると、全米シェア15%を握るまでに成功した。しかし、70年代後半の石油危機で菊の市場にも徐々に暗雲が立ちこめると、菊よりもより将来性の見込めるバラ栽培にいち早く転作。「ものごと、特に商売は、いい時に変わらなければならないんだ」
 年間を通して涼しいサリナスはバラ栽培にも適し、事業は成功。ペブルビーチのゴルフ場の丘陵上に妻のために茶室付きの新居を建てた。
 しかし80年代半ばになるとメキシコ系の農業労働者組合の結成に火がつき、あらゆる面から経営者の権利を剥奪する動きが活発化。次第に魔の手は松井さんの農場にも延び、ついに農場は労働組合に乗っ取られてしまう。
 しかしここで黙ってはいられない。労働組合の仲間争いで幹部2人が除名されたと聞くと、すぐさまその1人を雇い入れ、いかにして組合を追い出すかの戦略をたてた。その後労働組合を追い出すことに成功した。


鉢植え蘭で63歳からの挑戦

温室の中で蘭の花を点検する従業員たち。300種類以上の蘭が鉢植え栽培されている
 組合問題は解決するも、90年代に入ると南米から低価格のバラが大量に輸入され、サリナスに65軒あった花栽培農家もそのほとんどが廃業に追い込まれ、残ったのは3軒だけとなった。しかし「ピンチこそチャンス」。危機に陥ったら「熟考してより高い目標を探すべし」。こうした事態の中で次に目を付けたのが蘭だった。
 今から10年以上前、アメリカには日本やオランダのように蘭の周年栽培はなかったが、「アメリカの家庭の台所に蘭を飾る習慣を!」と決意。周囲はリタイア生活を始め、誰もが松井さんの可能性を信じなかった。「これが自分の最後の仕事となるだろう」。63歳からの新たな挑戦が始まった。
 世界中の蘭の栽培農家を見て回り研究し、96年には大・中・小3つのサイズで家庭用の蘭の鉢植え栽培を開始。量販店に主婦が買える価格で販売すると狙いは大当たり。特に9センチの小鉢で栽培する低価格商品「ミニ蘭」は不景気にのり世界的なヒット商品となった。


貧しい子どもたちを大学へ

 

美しい蘭を抱える松井さん。この蘭の花が毎年子どもたちを大学に送っている
 「ハーバードに行くか、サリナスの農家になるか」。松井さんは4人の子どもたちに2つの選択肢しか与えなかった。結果、子どもたちはみなハーバード大学を卒業。4人は各業界で活躍し成功をおさめ、次女のキャシーさんはゴールドマン・サックス証券のマネージングディレクターとして日本で生活している。
   
 60歳の誕生日を迎えた時、松井さんは子どもたちに告げた。「財産はいままでお世話になったサリナスの土に還し恩返しする」。遺言には「妻の分を残し、それ以外の資産は子どもたちに一切残さない」と記した。
 「地域コミュニティーには優秀でも経済的な理由で大学に進学できない子どもたちがたくさんいる」。松井さんは2004年に「松井財団」を設立し、農園収益の10%を毎年財団に寄付。地域の貧しい家庭の子どもたちへの奨学金制度を作った。毎年数人が選ばれ、ひとりにつき年間1万ドル、4年間で4万ドルの学資援助を行っている。
 「彼らに教育の場を与えないのは、コミュニティーだけでなくわれわれの未来にとっても大きな損失となる」。松井さんの美しい蘭の花はこれまでに97人を大学に送ってきた。自身の4人の子どもたちに残したかったのは、お金ではなく「恵まれない人のために尽くす精神」だった。
 「1万円札1枚でカリフォルニアに来たのだから、人生の最後に1万円札1枚が残っていれば十分」。推定1億ドルの総資産はすべて奨学金として財団に寄付され、少なくとも今後2500人以上の貧しい子どもたちへの奨学金となる。
 異国の地で自らの力で道を切り開いてきた松井さんは現代の若者に「開拓者となれ!」とメッセージを送る。
 「100歳まで現役で花を作り続けたい」。サリナスの花咲か爺さんは今日も子どもたちの未来のため、蘭の花を美しく咲かせ続けている。【吉田純子】
2011年に松井財団から奨学金を受け取った子どもたちと松井さん(前列右から4人目)。左隣が妻のメアリーさん

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  1. エデンの東に惹かれて、死ぬまでにサリーナスを訪問する希望は叶えたが、こんな人がいるとは知らなかった。自分の滞在はほんの二日ほどで、しかも年末年始でどこも休みだった。ケンタッキー・フライド・チキンしか食べ物はなかった。スタインベックミュージアムも閉まっていた。もう一度行きたいが85歳までに肺腺癌を二か所切除して、未だ一つ残っている。