8月12日付シアトルタイムスを読んで驚いた。
昨年シアトル市内で起きた観光用水陸両用車(ダック)事故で死亡した韓国人女子留学生の両親は、1909年に制定されたワシントン州法によれば、賠償金請求が認められないのだという。
エッと思わないではいられないが、同法によれば、成人した独身の子供の死について親が損害賠償を請求するには、親の生活がその子の収入に支えられていたことおよび親がアメリカ国内に居住していることが必要だという。
同法の制定は、それまで認められていなかった損害賠償請求を「経済的に親を支えていた場合にかぎり」拡大したものだという。しかし1909年といえば、鉄道関連の仕事目指し多くの日本人がシアトルに上陸していたころだ。家を支えるために独身のまませっせと働く者は少なくなかっただろうが、親はみな日本在住。事故で息子を失っても、「米国内に居住」の要件を満たさず賠償金の請求は認められなかったことになる。
現場でどんな事故が起きようとも出稼ぎ外国人労働者の死には賠償の必要がないとは、事業主にとって非常に便利な法律だったことだろう。そして、かつて出稼ぎ日本人らに不利だった法律は、今なおメキシコなどからの出稼ぎを不当に扱うことをも可能にしているだろう。
出稼ぎ目的で多くの若者が太平洋を渡った昔と違い、今の20代には留学生が多い。前述の韓国人女子留学生もそうだ。シアトル市内のコミュニティーカレッジに入学し、オリエンテーションの一環として貸し切りバスで市内観光に繰り出した際に遭った事故だった。
前途ある子のこれからに期待していた親の落胆は大きなものだろう。事故が韓国内で起きたなら、子を亡くした精神的苦痛に対して当然に賠償が認められると思われる事例が、送り出し先のシアトルで起きたばかりに頭から否定されるという不合理。
親の国内在住と子への経済的依存を損害賠償の要件とする州法には、果たして合理的な意味があるのか。州議会により法律が変更されるか、裁判所が同法を違憲と判断するしか解決方法がないとみられるこの事例の、今後に注目したいと思う。【楠瀬明子】