テレビで「死者の権利」という言葉を聞いてハッとした。なるほど、死者にも権利があるのだ。人権を主張する人は多いが、死者の権利を主張する人は聞かなかった。コロナウイルスの感染が急拡大した欧米では、コロナ感染死者は、臨終で行う聖体拝受・臨終の祈りなどに牧師も呼べないし、親族すら呼べない例が続出した。家族や親しい人たちが臨終にも立ち会えず、埋葬にも参加できない。画面に映る白い防護服に身を固めたスタッフ達が、白い布で包んだ遺体を集団埋葬地で次々に埋葬する映像を見ながら、なんとも言えない気持ちに襲われる。
 死後も誰かが覚えていてくれ、折に触れて思い出してくれるなら、死者は思い出の中に生きているのではないか。臨終にも立ち会えないことで、命の最後を見守る機会を奪い、死者の死後の命とも言える記憶を殺してしまうことにならないか。このコロナ禍で親しい人の臨終にも立ち会えないのは、なんとも無残で死者の権利を無視していると言われても止むを得ない。
 外出禁止で閉じ込められた人たちは、次第にストレスが溜まってゆく。方々でコロナ離婚という話題も聞かれる。
 私は高校生の時に病気で入院、十日間ほど絶対安静で面会謝絶処置が取られた。来る日も来る日もベッドに横たわり、検温と食事のとき以外は人の顔を見ることもできない。1週間も経つと、見ず知らずの病室でもドアをたたいて人の顔が見たいと思った経験がある。
 人間には自由を拘束される不幸があり、共通の関心を持つ人と会話を交わし共感し合える幸せがある。
 日本では緊急事態宣言が解除され、自粛中の店が開き始め、急激に人々の往来が戻りつつある。店はさまざまな工夫を凝らすがお客が戻るかどうか不安だ。日々の感染者数などを見るとまだまだ油断はできない。
 ネットビデオ会合で外出自粛を話し合った。読書に励んだ者、近所の短い散歩で体力を維持した者、生命・哲学・歴史に興味を持って勉強した者などさまざまだった。今までの生き方を振り返るとともに、次はコロナ後の社会・経済を仲間と共に話し合おう。全世界のコロナ感染死亡者に哀悼を捧げたい。【若尾龍彦】

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