小東京の1街をパレードする日本選手を乗せた車列。歩道には大勢の見物人が見られる

1932年、日系米国人写真家のトーヨー・ミヤタケ(宮武東洋、1895〜1979)は、ロサンゼルス五輪を記録するために日本の朝日新聞に雇われた。大会は大恐慌の時期に開催され多くの国が参加できない中で、日本は2番目に大きな131人からなる選手団を派遣した。

ミヤタケは、三段跳びで世界記録を更新した南部忠平や、男子1500メートルの競泳の自由形で金メダルを獲得した14歳の北村久寿雄など、日本のアスリートの勝利の多くを撮影した。北村は今でも五輪で金メダルを獲得した最年少の男子水泳選手である。そして、西竹一(バロン・ニシ)は馬術の個人障害飛越で日本人として唯一の金メダルを獲得した。日本選手団は金メダル7個、銀メダル7個、銅メダル4個を獲得し、小東京の1番街でパレードを行い、日本人コミュニティーは湧き上がった。

日の丸を持つ旗手を先頭に行進する日本選手団

11日から日米文化会館(JACCC)のドイザキギャラリーで開催される、トーヨー・ミヤタケのロサンゼルス五輪写真展「聖火(Torch)」は、1932年の五輪をユニークな角度から考察する。写真に添えて、五輪を記念して出版された「Torch」(1933)に掲載された、当時のロサンゼルスやハワイなどにいた一世の詩人によって書かれた詩を、翻訳して展示している。さらにミヤタケが使用したカメラや、五輪開催中にミヤタケが個人的に撮影した写真アルバム、1932年と1964年のオリンピックの記念品も展示される。
米国に居住する日本人にとって、当時は複雑な時期だった。五輪のナショナリズムは写真と詩の両方で明らかであり、日本帝国の膨張主義、軍国主義を反映している。同時に、何年にもわたるアジア人排除と外国人土地法があり、これらが最終的に日系米国人の強制収容所で最高潮に達することを予感させる。
ミヤタケは香川県で生まれ、母と兄弟と共に1909年に米国で父親と合流し、小東京に定住した。ハリー・K・シゲタに写真を学び、小東京の日本カメラクラブの活発なメンバーとなり、1923年に写真スタジオを開設した。

1932年当時の小東京。各国の国旗や五輪旗が見られ、オリンピックの機運が高まっていることがうかがえる

1930年代に多くの作品を残したが、その多くは、当時流行したピクトリアリズムのスタイルをとっている。つまり、写真家は写真を記録として扱うのではなく、構図や技術的手段を通じてイマジネーションに基づいた作品を作るという作風であり、しばしば焦点はソフトフォーカスであることが特徴だ。ミヤタケの作品は、1926年のロンドン国際写真展ほか、多くの機会に批評家からの称賛を集め、賞を受賞した。
第二次世界大戦中にマンザナー強制収容所に収容されたミヤタケは、カメラのレンズとフィルム・プレート・ホルダーを密かに収容所内に持ち込んだ。収容仲間の一世がカメラ本体を木で作り、隠れてキャンプ内の様子を撮影し始めた。そのうちに収容所の監督官が、ミヤタケはカメラを設定するだけで白人のアシスタントがシャッターを切るという条件で、ミヤタケに写真スタジオのセットアップを許可した。やがて、ミヤタケは写真家のアンセル・アダムスと出会い、長いコラボレーションの末に2人で作品集「マンザナー強制収容所」(原題 Two Views of Manzanar 1978年)を出版した。

トーヨー・ミヤタケの写真展をキューレートした小阪氏

戦後、ミヤタケと家族はロサンゼルスに戻り写真スタジオを再開することができた。肖像写真のほか、毎日新聞と羅府新報の写真家としても活躍した。
JACCCのアーティスト・イン・レジデンスで展示をキュレートした小阪博一氏は、次のように述べている。「これらの写真は、トーヨー・ミヤタケ氏のレンズの背後にある天才性を示している。彼の孫であるアラン・ミヤタケ氏が、コミュニティーが楽しめるようにトーヨー氏の作品を展示させてくれたことに感謝する」
1971年設立の日米文化会館は、米国で最大の民族芸術および文化センターの一つ。JACCCは、日本人と日系米国人の芸術と文化をコミュニティーの構造に織り込む活動をしている。JACCCは小東京に根付き、国内外の人々と文化のつながりを築くための重要な場所を提供している。包括的なプログラムと本物の経験を通じて伝統を継承し、次世代の革新的な芸術家、文化の担い手、思想家を育てている。
展示は8月8日まで、入場無料。開館時間は正午から午後4時(月曜日は休館)。詳しくは、ウェブサイト—
www.jaccc.org/

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