9月の下旬を過ぎると、気温は夏の名残をとどめながら風がなくても木の葉が少しずつ舞い初める。
 40年以上も前にシカゴ市が自宅の前の芝生に植えた3本の楓は、初夏から夏にかけてまるで眼の中まで緑に染まりそうな葉をそよがせ、秋には黄や赤に紅葉して実に美しい。
 骨の折れる落ち葉かきも紅葉の色になぐさめられて、それなりに季節ごとの家事を楽しんできた。
 ところが今年はどうしたことか、舞い落ちるすべての葉は葉先半分が茶色に枯れて、残りは青いまま。葉の大きさもいつもの半分もない。まるで病葉である。
 そういえば8月、9月と雨が少なく、仕事を終えて帰宅して、陽の落ちるころ何度も水まきをしたが、あまり効果はなかったらしい。
 やれワクチン接種だ、マスク着用だとコロナ・パンデミックに気を取られて、草木に対する心遣いがおろそかになっていたのだろうか。
 落ち葉の季節になってやっと気が付いた変異である。
 それにしては隣の辛夷(こぶし)も木蓮(もくれん)も春先には見事な花を咲かせたし、庭隅の紫蘇(あおじそ)は見事な葉をつけて茂り、数軒先のスイカズラも素晴らしい香りを漂わせた。
 一体何が楓の機嫌を損ねたのか分からないが、今年は茶色に縮れて醜い姿である。
 10月になって急に降雨量が増え、大雨だ、ストームだと天候が定まらない。
 濡れて歩道にしがみついて変色した楓の葉を見ながら、何となく人間の終焉(しゅうえん)を見ている気がしないでもない。今週末あたり、歩道が乾いたら、少し早いが落葉掃除を始めよう。
 いつも犬を散歩させる道すがら、熊手を手に苦戦する私を見て、「今ごろ落葉をかいたって、負け戦だよ。葉が落ちつくすまで休戦しなさいよ」とからかってゆくジョンに、また笑われるかもしれないが、いつもはあや錦を潔く脱ぎ捨てて来るべき冬に備える雄々しい楓のイメージが壊れないうちに、足元の醜い襤褸(らんる)を片付けてやらねば…。
 バイデンもトランプもなく、銃撃事件や、カージャックが日常茶飯事になった社会情勢も、ガソリンや食料品医療費の値上がりも、嫌なことはみんな横へ押しやって、ほんの10分ほど楓のことだけ考えていた。【川口加代子】

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