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 昨年2月に亡くなられました野本一平さんを追悼し、サンフランシスコで発行されていた月刊誌「もん」に発表した「詩片季語」を木曜随想に連載します。

 【野本一平】

わがふるさと。岩手の新年は、雪の中にある。
 雪国に育ったものには、新しい年は新雪によって、さらに浄化されると信じていた。
 その故郷を遠く離れ、雪のつもらぬ異国の地で、正月を迎えるようになって、はや三十余年は過ぎ去った。
 つけ焼き刃の、あやしげな異国のことばをあやつりながら、異国暮らしも、ここにきわまれりという感じである。
 形ばかりの暮しは、見たところ定まったかに見えるが、流離のこころは一向に変りそうにない。だから、新年の想いは、まっすぐ故郷へと飛ぶ。あたかも、磁石の針が天極を指すように。
 きびしい寒さと、雪景の中の故郷の民俗は、怠情に過ぎている私へのいましめであるかのようである。
 詩人高村光太郎はつぎのように詠う。
 「冬」と題している。

新年が冬来るのはいい。
時間の切りかへは縦に空間を裂き
切面は硬金属のやうにぴかぴか冷い。
精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、
一切をアルカリ性の昨日に投げこむ。
わたしは又無一物の目あたらしさと
すべての初一歩の放つ芳ばしさとに囲まれ、
雪と霰(あられ)と氷と霜と、
かかる極寒の一族に滅菌され、
ねがはくは新しい世代といふに値する
清潔な風を天から吸はう。
最も低きに居て高きを見よう。
最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。

ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。

 すがすがしい精神の緊張が、読むもののこころに、しずかに波及してくるような詩ではないか。
 光太郎には、この詩の以前にも、「冬がきた」という詩があり、また「冬の詩」という百五十行にもおよぶ長編の詩もある。
 そのいずれにも、光太郎の人生感、倫理性が裏づけられている。
 冬のきびしさと、非情とに、峻烈(しゅんれつ)に立ち向う姿勢が、光太郎の生涯そのものでもあったのだ。
 その故にこそ、光太郎は太平洋戦争の末期から戦後にかけて、岩手の山中に隠栖(いんせい)した。六十三歳から七十歳までの七年間、世の中の動きに一切背を向けて、自らを責め抜いた。老境にいたった光太郎にとって、岩手の冬はより苛酷ではなかったろうか。
 かっては、西欧の新しい芸術運動の輝かしい紹介者であり、自らも詩人、彫刻家として、その峰を極めていた人が、戦争を謳歌(おうか)したことを深く愧(は)じたのである。だから、自ら「暗愚」の典型ときめつけ、北国のストイックな自然の中に、自己を閉じ込めた。
 一体、あのころ何人の政治家や、世の指導者、文化人たちが、戦中の行動を慚愧(ざんき)して、自ら流謫(るたく)した人があったろうか、私はその例をきかない。
 先年、私は光太郎のその山荘(山小屋といった方が適切なのだが)を花巻の郊外に訪ねてみた。この詩人が、どのように自己を凝視し、詩作し、彫刻したか、その場をもう一度確認したいと思ったのである。
 冬がくると、雪は小屋を埋めつくし、粉雪は容赦もなく壁のすき間から小屋の中に吹き込み、詩人が休んでいる蒲団(ふとん)のまわりを、うっすらと白くしたという。
 そのころ、光太郎は、

雪白く積めり。
雪林間の路をうづめて平らかなり。
ふめば膝を没して更にふかく
その雪うすら日をあびて燐光(りんこう)を発す。
燐光あをくひかりて不知火に似たり。
路を横切りて兎の足あと点々とつづき
松林の奥ほのかにけぶる。

と詠い、さらにその後に、

わが詩の稜角(りょうかく)いまだに成らざるを奈何(いかん)にせん。
わづかに杉の枯葉をひろひて
今タの炉辺に一椀の雑炊を暖めんとす。

 と書いた。
 若き日の光太郎は、冬のきびしさを我に来たれ、そして我を鍛えよと詠った人である。
 同じ詩の中に、「敗れたるもの卻(かへつ)て心平らかにして」と記したように、老いた詩人光太郎は、もはや厳冬と対時するのではなく、むしろ、そのものにいだかれ、共にある姿勢になっている。
 暦のならいに従い、いまアメリカに新年を迎えている。わがくらしをみつめ、わが心の行方を想う時、光太郎の冬の詩が、大きないましめとして、私の前に立っている。

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