音楽の散歩道
小川弘子さんの音楽コラム
おがわ・ひろこ
神戸大学教育学部音楽科卒、同大学院修士課程修了。声楽、器楽、合唱、バレエなどのピアノ伴奏者、および合唱指導者。現在、南加日系合唱連盟会長。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。
【小川弘子】「人より1日でも長く生きて、人より1回でも多く指揮台に立つ」ことをモットーとし、現役世界最高齢指揮者として、2001年12月29日に93歳で亡くなる2カ月前まで舞台に立ち続けたマエストロ、朝比奈隆さん。没後20年を迎えた今、改めてその偉大さの中でも、あまり知られていない戦前から戦中にかけての朝比奈さんをご紹介しましょう。
朝比奈さんは、高校時代に、ロシア革命を逃れてきた白系ロシア人指揮者エマヌエル・メッテルの振る新交響楽団(現・NHK交響楽団)の演奏に感動し、メッテルが学生オーケストラの常任指揮者を務めていた京都帝国大学(現・京都大学)への進学を決意します。15歳で始めたヴァイオリンは、高校卒業までにみるみる上達し、京都帝大オーケストラではヴァイオリンとヴィオラを担当、そのうちにメッテルのアシスタントとして練習の指揮を任されるようになり、指揮者としての第一歩を踏み出しました。
メッテルの後任として京大オケ指揮者となり、大阪音楽学校(現・大阪音楽大学)や大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)、宝塚交響楽団(現・宝塚歌劇オーケストラ)などで修業を積んだ後、太平洋戦争中の 1943(昭和18)年12月から翌年2月まで、上海交響楽団の指揮者に任命されました。白系ロシア人、ユダヤ人、ドイツ人などを中心とした国際色豊かで、当時の日本では望むべくもないほどの実力を持つオーケストラを振る、またとないチャンスでした。まだレパートリーも経験も少なかった朝比奈さんは、毎週行われるコンサートのために、その3カ月間は、毎日追いかけられるような気持ちで勉強したそうです。
その翌年には、満州で、日本人を中心とする新京交響楽団と、白系ロシア人のハルビン交響楽団の指揮を要請され、その年のうちに3回にわたり渡満。ハルビンでは、自身がメッテルの弟子であることを告げると、日本に来る前にハルビンで指揮者として活動していた頃のメッテルを覚えている団員もおり、驚きと歓喜の声が上がり一気に絆が深まったとのこと。2団体の合同オーケストラで満州各地を回り、終戦の日はハルビンでベートーヴェンの交響曲第5番「運命」のリハーサルをしていた朝比奈さんは、この日をもって解散となったハルビン交響楽団のメンバーに、楽譜、楽器、現金を含む全財産を分配しました。自身は終戦後1年以上経ってようやく帰国するまでの間、非常に苦労した時期もありましたが、意外なことに、当時の中華民国、国民政府からの依頼で中国人オーケストラ編成の仕事を依頼され、6カ月間指導にあたり謝礼ももらっていたというのですから、驚きです。
帰国後わずか3カ月で関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)を結成し、その3カ月後には第1回定期演奏会を開催するという実行力は、そのまま半世紀以上このオーケストラを音楽的にも経済的にも文字通り導き続け、ベルリン・フィルやシカゴ交響楽団をはじめとする海外への客演指揮も毎年のように行うという、超人的な活躍ぶりへと続きました。
今回は字数の関係で触れることのできなかった、大フィル時代やサラリーマン時代なども、面白い逸話は尽きません。またいつか改めてご紹介しましょう。