先の日曜は母の日。実の母は何年も前に他界したが、ここロサンゼルスで私が勝手に「お母さん代わり」と慕わせていただいている方に、日ごろ気にかけてくださっていることへの感謝の気持ちを伝えた。「お母さん、ありがとう」は母の日の定番のフレーズだ。
 テレビ番組は母の日にちなんだ話題ばかりで、そのほとんどはほほ笑ましい母と子のエピソードだったが、母親を亡くしたばかりの人や母親になることができなかった人の憂鬱(ゆううつ)にどう心を砕けばよいかという話題もあり、少し考えさせられた。当たる光が強いほど、どこかに暗い影ができてしまうが、光に目がくらむと気が付かないものだ。周囲にそういう家族や友人がいたら、一緒に過ごすことが慰めになると番組は勧めていた。
 母の日ニュースでおなじみの取材場所は、混雑するロサンゼルスの花市場だ。日本では母の日といえば赤いカーネーション、そして亡くなった母親への感謝の気持ちを伝えるのは白いカーネーション…ということになっていたが、今でもそうなのだろうか。その由来はここ米国にあるらしいが、周囲にはそんな習慣はなく、思い思いの花を買っているように見える。
 自分が反抗期だった10代当時に、今は亡き母が「母親は子どものために命を投げ出せる」と言い切ったのを聞いて、「そんなバカな」と思ったものだったが、それは親になってみて初めて理解することができた。私の人生の最大の教訓の一つである。そんな母をもてた私は幸せだったと言うしかあるまい。
 生まれてきたのだからすべての人に母がいる。一方、すべての女性が母になるわけではない。母になることが女性の最大の幸せであるという考えはあまりに時代錯誤だが、自分の人生を振り返ると、親になったことが最大の人生の分岐点であり、何十年にもわたる幸せの種であったことは、悔しいけれど認めざるを得ない。ということは、そんな気持ちを抱かせてくれた子どもがいて、これまた私は大変に幸せなのだ。
 だから「母の日」は私を母にしてくれたことへの感謝を子どもに伝える日であると、これが私の、今年の「母の日」の解釈である。(長井智子)

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