今年2度目の日本から戻ってすぐ、小東京の地下鉄駅が開通。フェンスに隠れていた駅がお披露目された。以前の外の小さな駅とは大違いで格段に広く立派になったことに驚いた。乗り換えなしでサンタモニカやロングビーチに行ける便利さで、利用客も増えることだろうと思った。と同時に、ホームレスなど今までいなかった人たちも一緒に増えるのでは、と心配もよぎった。
 古希を過ぎての飛行機旅の繰り返しは時差を感じるようになったし、疲れるようになってきた。疲れはあっても、地下鉄新駅から乗ってみた。いつもより家族連れや友達グループに見える人が多かったが、ホームレス風の大きな汚れた荷物を持った人たちがいつものように乗り合わせていた。日本の地下鉄に散々乗っても、大きな荷物を持って悪臭を放つホームレスには出会ったことがない。奇声や大声を発する人も見かけない。まれに路上で訳の分からない大声を発する人を見かけたが、まだまだ平穏ではある。ただ、銃撃による事件は、毎日のように報道されるロサンゼルスとは違うが、改造銃、自分で作った銃による事件が起こる。銃を持つのが一般的でないからと安心していられない。
 地下鉄などの交通機関は移動手段として使うもので、長時間滞在する場所ではない。日本ではまだ移動手段としてのみ使われていると思った。地震などの被災者で緊急を要するならまだしも、常に被災者のごとく長時間居続けている人も当地では見かける。公共を自覚するかどうかの違いなのだろうか。公共のとらえ方がそもそもあるのだろうか、と思うことがよくある。まず掃除していてごみに対する接し方。自分の領域にあるごみは、領域外に出す。拾ったり集めたりはなくて、ただ公道など領域外に移す。公共の意識があれば、公共の場はきれいにしようと集めると思うのだが、その光景はまず見かけない。
 日本の労働形態、移民労働者受け入れ、学校教育現場の変化、子どもを取り巻く環境など変化してきている中で、今のロサンゼルスの現実がいつか日本に起こるかもしれないと、そう思えてくる。今の日本の現状が変わらずに、美しくあってほしいと祈るばかりである。(大石克子)

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