ある日本語学校の学習発表会に臨席する機会があった。しばらくぶりに子どもたちの元気な姿を目にすることができると期待しながら学校に向かったのだが、早めに着いたので発表会が始まるまでそれぞれのクラスでの最後の準備風景を窓越しにのぞいてみた。
先生を囲んで歌の練習をしているクラス、大きな紙に書いたものを手にして順番に大きな声で何かを読んでいるクラス、何やら演技の仕上げに余念がないクラス…。それぞれの教室を一つずつゆっくり時間をかけて眺めているうちに、何か私の胸に込み上げてくるものがあるのを感じたのだが、それは、みんなで力を合わせて何かを守ろうとしている、そのことへの感動だったと思う。
しかし、いったい何を守ろうとしているのか。
その学校は生徒数約50人で、親が日本語を話す生徒かどうかでクラス分けしているが、多くはいわゆる「継承語」としての日本語を学んでいる。家庭や家族、または所属するコミュニティーの人々が話す日本語に力点を置いた教育である。そのため、外国語として日本語を学ぶ場合よりも、アイデンティティーの育成に効果があるのではないかと思うのだが、現在この継承語としての日本語教育の展開が次第に難しくなってきているという。継承日本語教育の普及に努めていた加州日本語学校協会は2020年に解散した。非日系はもちろん、日系にしても、親が日本語を話す家庭が少なくなってきているためだ。ならば、クラスで守ろうとしているのは、その継承語としての日本語教育なのだろうか。
じっと教室の中をのぞきながら、私は、感動はおそらく子どもたちに何かを教えたいという教師たちのひたむきな気持ちであり、その先生の気持ちに少しでも応えたいという生徒らの無邪気な気持ちなのではないかと思った。教室という空間で守ろうとしているのは、そうした気持ちに他ならないのではないか。たとえ継承語としての日本語の教育が難しくなってきているとしても、教師と生徒のそうした気持ちは確実に継承されていくであろうし、継承されていくべきものである。
生徒たちのステージを見ながら、私は心の中で大きな声援を送り続けていた。(長島幸和)
