1934年7月、北ロサンゼルス通り104番地にあった羅府新報社屋前に勢ぞろいする当時の社員たち(トーヨー・ミヤタケ写真館提供)。羅府新報は120年にわたって、地域社会の情報を報提する信頼できる報道機関であり続けている

 コミュニティーに不可欠な存在として120年も続く機関は、羅府新報をおいてはそう多くない。
 羅府新報は単なる一新聞社としての在りようをはるかに超え、米国社会の大部分の人々の生活や行動を瞬時に伝えることによって、彼らの生活の方向性に影響を与えてきた
 1903年、南カリフォルニア大学(USC)の学生だった飯島敬一郎、渋谷清二郎、山口正治の3人は、新しい世紀の幕開けを迎えて、地域社会には日々の声を記録する必要があることに思い至った。彼らはこの地域社会に、他の場所では語られる可能性がほとんどないニュースやストーリーがあることに気付き、それらを将来の世代のために保存しようと決心した。
 米国への日本人移民は19世紀後半に急激に増加した。これは、日本人が外国に行くことを可能にした日本の新しい政策と、ハワイや米国西海岸の都市で安価な労働力の必要性が高まったという二つの状況によって促進されたものだった。
 ロサンゼルス市内の一つの区域が「日本町」または「小東京」と呼ばれる町になりつつあった頃、日系の人々が次の段階に進むためには、それぞれが持っている情報をまとめることが極めて重要であることが明らかになってきた。
 羅府新報は最新のニュースや出来事を毎日謄写版刷りで掲載することから始め、他のいくつかの報道機関とともに、すぐにコミュニティーに足場を築いた。
 1930年代の終わりまでに、羅府新報は米国社会の構造にしっかりと統合されていく過程の日本人コミュニティーにおける、信頼できる情報機関になっていた。移民の第1世代である1世たちは家庭を築き、ビジネスを興し、教育機関や市民団体を設立して、南カリフォルニア社会の活性に貢献した。そして地元で生まれ育った彼らの子どもたちは、次世代の米国人となっていった。
 しかし1941年12月の日本軍の真珠湾攻撃により、全てが変わった。第2次世界大戦への突入で、地域社会も米国も、そして全世界が変わったのである。その翌日には米国政府高官は羅府新報の事務所を捜査し、敵国への忠誠心や援助行為を暴こうとした。
 戦争に伴う一般米国市民の排日感情の高まりの中、ルーズベルト大統領は42年2月19日、日本人と日本人を祖先に持つ人々の太平洋沿岸からの総立ち退きを命令した。これに伴い、米国生まれの日系米国人を含む約12万人が、内陸部に急設された戦時強制収容所に送られた。
 当時羅府新報の発行人だった駒井豊策は敵国への同調者であるという疑いで、何百人ものコミュニティーの指導者や一般市民と同じく拘留された。罪のない何千人もの人々が突然、家や生計手段を失った。羅府新報は1942年4月4日、閉鎖処分を受ける前に、それが最終号になるかどうも分からないまま、1面に「また会いましょう」というタイトルの記事を掲げ、戦前最後の新聞を発行した。
 戦争が終わり、米国が新たな政治的状況下に日常を取り戻しつつある中で、羅府新報は1946年1月1日に、日刊新聞として再出発した。この時代は新聞に加え、コミュニティーには映画やラジオ、次いでテレビが新しい情報手段として急速に台頭し、情報およびそれを伝える組織は、かつてないほど重要な存在となった。
 そうしたメディアの新時代の中で、羅府新報は、日本語を話す人々に正確なニュースを毎日提供するという役割の一方で、若い米国人の活気に満ちたコミュニティーとともに成長していくという役割を自らに課していく。
 戦前に地元の日系ビジネス促進のために始まった二世週祭が戦後に復活し、巨大なイベントに成長して小東京に毎年何千人もの人々を集めるようになった。初期の日本人移民の子孫たちは、コミュニティーの指導者や優れた学者、著名人、あるいは重要な決定権を持つ人間に育っていった。
 そうした歴史の流れの一つずつの場面において、羅府新報は常に日系米国人コミュニティーにとって信頼できるレポーターであり情報提供者であった。同時に、ロサンゼルス全体の人々にとっても、その立場を維持してきたのである。
 その後の数十年間、社会的な規範が年々変わり、人々が何を優先するかが変わるとともに、世界はニュースや情報を発信する方法とそれらを消費する方法が大きく変わるのを目の当たりにしてきたが、それでも、新聞が抱える使命は衰えることがなかった。
 今年創刊120年を迎えた羅府新報は、1903年に最初の印刷版がニューススタンドに登場した時と同じ場所に、同じ義務を負って、立っている。この120年の間に、2度の世界大戦、少なくとも1度の大恐慌、2度の世界的なパンデミックを乗り越えるとともに、われわれの個人的なアイデンティティーや国としてのアイデンティティーの変化といったものも乗り越えてきた。
 今も使命は何一つ変わらず、その使命の前にひるむようなこともない。この記事を書いている時点での最近の新聞には、人生を構成する日々の出来事の報道があふれている。それはロサンゼルス界隈での桜祭りの話であり、グリフィス公園内に第2次世界大戦に関連する場所を正式に認定する計画の話であり、大谷翔平選手が大リーグで達成した新たな記録の話や、コミュニティーで開かれたファッションショーの話、地元高校のソフトボール大会の写真、そして、忘れてならないのが亡くなった人たちの話である。
 地域密着型の新聞の価値とその記事の保存は、いくら誇張しても誇張しすぎることはない。印刷された新聞のページは時とともに黄ばみ、もろくなるかもしれないが、印刷された文字は消えず、今もそして何世代にもわたってそこにあり続ける。
 「羅府新報はこれからもあなたの話に忠実に耳を傾け続けます。そして、1人でも多くの皆さんが、羅府新報の魅力を見つけてくれるよう願っています」

(羅府新報英語部編集員 マイキー・ヒラノ・カルロス、1998年入社)

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