羅府コラムニスト小川弘子さんの音楽エッセー

 エストニア共和国という国をご存知でしょうか? 北ヨーロッパにあり、バルト三国の中で最も北に位置し、東はロシア、南はラトビアと国境を接し、北はフィンランド湾を挟んでフィンランドと、西はバルト海を挟んでスウェーデンと向かい合っています。九州と同じくらいの面積に137万人(2025年、外務省のウェブサイトより)が住んでいます。小国ながらも、自らの言語であるエストニア語や文化を守り続け、1991年にソ連から独立した後、国連、EU、NATOに加盟し、現在は、高度電子化国家として発展を続けています。

 中世の頃から、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ロシアなどの大国の支配を受け続けた中で、1917年のロシア革命を機に3年後にはソ連から独立しました。しかし、第2次世界大戦前にヒトラーとスターリンで結ばれた独ソ不可侵条約に付属した秘密議定書により、エストニアはソ連の属地となることが決められていたのです。結局、ドイツ、ソ連の両方から攻め込まれ、独立は無意味となりました。ドイツ敗戦後はソ連に併合され、ソ連統治に反対した人はシベリアの強制収容所に送られ、代わりにソ連人をエストニアに入植させるなどして、エストニアのロシア化を図られました。

 転機は、ソ連共産党書記長(後に大統領)ゴルバチョフによる、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(政治改革)という新しい政策でした。これにより、エストニア国内でも政治活動が可能となり、一気に独立への機運が高まりました。その中で大きな役割を果たしたのは、軍事力でも、暴力でもなく、歌でした。

 エストニア人は、どんなに国の体制が変わろうとも、古くから歌を愛する人々でした。1869年に始まり、5年に一度催されるエストニア全国歌謡祭には、毎回3万人を超える参加者と10万人ほどの聴衆が集まるといわれています。ソ連に支配されていた時代には、自国語の歌は禁止されていたのですが、「我が愛する祖国」という1曲だけは、なぜかソ連の検閲をくぐり抜け、独立を勝ち取るまでのテーマソングのようになっていました。この歌が全国歌謡祭でも歌われるようになったのは、1960年代になってからのことで、歌謡祭100周年の69年には正式にプログラムに組み込まれました。

 80年代中頃には、独立を叫ぶロックンロールが各地の大きな会場で歌われるようになりましたが、ソ連当局はグラスノスチ(情報公開)を踏まえて、非暴力の無血革命を目指すエストニア人に対して、軍事行動を起こすことができませんでした。

 88年夏、6日連続のコンサートが行われ、禁じられていた国旗を振りながら、まだ非合法であった愛国歌などが歌われ、最終日には20万人以上が集まりました。エストニア人は、暴力ではなく、歌の力で戦ったのです。この時も、ソ連側は、なすすべがありませんでした。

 翌年には、バルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニアの3カ国をまたぐ675キロメートルに延べ200万人が手をつなぎ、独立を願う意思を全世界に対して表す「バルティック・ウェイ」という抗議活動を行いました。

 こうして、91年、エストニアは平和裏に独立を果たしました。そこに至るまでに、歌は常に中心的な役割を果たし、その一連の運動は、「歌う革命」と呼ばれるようになりました。独立から35年を経ても、あまり知られていない「歌う革命」ですが、エストニアという国を知るためにも、歌の力を再認識するためにも、ぜひ知っていただきたい歴史です。

おがわ・ひろこ


神戸大学教育学部音楽科卒、同大学院修士課程修了。声楽、器楽、合唱、バレエなどのピアノ伴奏者、および合唱指導者。現在、南加日系合唱連盟会長。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。

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