1964年のオリンピックの立候補地は、米国のデトロイト、オーストリアのウイーン、ベルギーのブリュッセル、そして東京の4カ所でした。それまでの五輪は欧米でのみ行なわれており、1948年のロンドン五輪には日本人選手の出場さえ許されませんでした。それだけに、東京五輪開催は多くの人々の夢でした。招致活動がはじまった時点での票読みはデトロイトが29票、東京は10票、実現のためにはどうしても中南米の票が必要でした。
 そこで日本の招致委員会が目につけたのが、ワシントン州生まれでLA在住のフレッド和田勇さんと正子さんの夫婦でした。和田夫婦は、1949年のLAでの全米水泳大会に『フジヤマのトビウオ』と呼ばれた古橋広之進ら日本の水泳選手らに自宅を提供してもてなし、優勝に導く手助けをしたことでスポーツ界とのつながりがありました。
 しかしながら、和田夫婦はアメリカで青果店を営む一般市民で、日本や米国の政府とはつながりがありませんでした。当時の岸信介首相からの親書を受け取った和田夫婦は、仕事を二の次にして自費でメキシコに行き、知り合いの農場主をつてにメキシコの五輪委員にたどりつき、日本支持を訴えました。
 当時のメキシコは多くの米国援助を受けており、日本を支持することができないという立場がありました。それでも和田夫婦は「東京の次にはメキシコでも五輪の花を咲かせたい」と熱心に説得し、支持を取り付けました。その後、中南米各国にも自費で回り、みごとに中南米国の支持を取り付けたのです。
 そしてミュンヘンでの会議、第1回目の投票で34票の過半数を得て、アジアではじめての東京五輪の開催が決定されました。まぎれもなく和田夫婦のロビー活動の成果でした。日本に誇りと自信を取り戻したいという情熱が多くの人の心を動かした結果でした。その後、メキシコ五輪開催を実現させる恩返しも果たし、敬老引退者ホームの設立にも尽力しました。こんな先人たちのおかげで、今の日本があります。【朝倉巨瑞】

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