市長は講演を、①長崎独自の歴史②長崎の生活様式③平和都市・長崎―をテーマに展開した。
まず、港町の特色を生かしたポルトガル、中国との交易で栄えた歴史を紹介。鎖国時は幕府が門戸を唯一長崎に絞ったため平戸、その後は出島でのオランダとの貿易を謳歌した。唐人屋敷は現存し、かつての外国人居留地には洋館が今なお見られる。オランダ商館が置かれた出島は、跡地に町並みが復元されたものの周辺は開発に伴い港が埋め立てられたため、弧を描く独特の原型はわずかに残すのみ。そのため、架橋するなどし、より忠実に復元する事業が現在進められており、市長は「橋を渡って出島に渡り、水に囲まれた町にしたい」と意欲を示した。
市民の生活はやはり、外国と深くかかわりを持つ。中国の僧が作った日本最古の石橋の眼鏡橋他、唐寺を大切に保存し、旧正月を祝う「長崎ランタンフェスティバル」は盛況を極める。食文化は、ポルトガルのカステラ、中華風のちゃんぽん、皿うどんが生まれた。外国との交流はまた産業に影響をもたらし、造船所はアジアで唯一、豪華客船が建造できる。さらに、世界文化遺産の登録が期待されるキリスト教会群や明治産業革命(欧州以外で世界初)の発祥地、炭鉱で賑わった軍艦島などを説明。交流について市長は「歴史上のことだけではなく、今も続いている」と、異文化と融合し独自の文化を育んでいることを強調した。
長崎県人会の前田拓会長によると、同展は県人会設立25周年記念の一環行事として開かれた。前田会長と田上市長は、高校時代の級友であることから展示が実現し、県人会は市長一行の歓迎会を開いた。同会長はイベントについて「平和の発信に加えて、長崎の観光や文化について知ってもらい好評でよかった」と喜んだ。
米国では被爆地として広島の知名度は高く他方、長崎を知る人は極めて少ない。その点について市長は「長崎を最後の被爆地にするために平和を発信し続けたい」と、あらためて述べ「長崎と日本の良さをアメリカの人に知ってもらうために長崎県人会と在留邦人のみなさんに頑張ってもらいたい」と、親善大使としての活躍に期待を寄せた。【永田潤、写真も】