96年、日本政府は日米関係を促進させた功績でサトウさんに瑞宝小綬章を授与した。
サトウさんは1921年6月8日、6人きょうだいの1人として生まれ、モデスト近くの小さな町リビングストンの農場で育った。ルーズベルト大統領が42年2月19日に大統領令9066号に署名した後、家族は自発的にコロラドに避難した。兄弟のジョーさんとアートさんは、日系人部隊の第442連隊戦闘団に志願。サトウさんは2人がイタリアの最前線から書き送った手紙を大事に保管していた。
サトウさんは日系人を快くコロラド州に迎えた当時のラルフ・カー知事に永遠に感謝し続けた。北コロラド大学で学士号と教員資格を取得した後、ニューヨークのコロンビア大学教員学部で修士号を取得した。
「(日系二世であることを)明らかにする必要はないし、明らかにするように求められてもいないが、私は言う。(二世であることを)恥じてもいないし、結果として障害や差別に直面することを恐れてもいないので。あるコミュニティーが狭すぎて私の文化的背景のために私を受け入れることができないとしても、真の民主主義を信じ言葉だけでなくそれが実際に実行されることを見たいと願う別のコミュニティーがあると確信している」と書いている。
1948年、サトウさんは横浜の私立学校(現フェリス女学院)で教えるために日本に渡った。米国占領下の日本でマッカーサー司令官の下で働いていた将来の夫トーマス・サトウ氏に会った。家族は56年にカリフォルニアに戻り、サトウさんは3人の子供のPTAや教会でボランティア活動を始め、ロングビーチ教会評議会の会長になった。広範なコミュニティーへの関与を買われて市議会の議席に立候補するように頼まれ、75年から議員となった。
身長4フィート10インチの小柄な女性だったが、ボランティアや他の人を助けるための無限のエネルギーを持ったダイナモとして多くの人から慕われた。
2015年、ロングビーチ統一学区はアジア人で初めての名誉として「the Sato Academy of Mathematics and Science」にサトウさんの名を冠した。
訃報に際し今週、ロングビーチ評議会の席上で現職のロバート・ガルシア市長は、「サトウさんはコミュニティーに、特に女性やアジア系米国人のために、驚くべき画期的な貢献をした」とサトウさんに敬意を表した。【訳=長井智子】