ロングビーチ市議時代のユーニス・サトウさん
 米国主要都市の市長を務めた初のアジア系米国人女性、ユーニス・N・サトウさんが2月12日、心肺停止で亡くなった。99歳だった。サトウさんは1980年代初頭に2年間、女性初のロングビーチ市長を務め、経済混乱の時期を乗り越えて街を率いた。また、75年から86年まで、第7区を代表するロングビーチ市議会の議員だった。議員引退後も長年コミュニティーで活躍し続けた。

ロサンゼルスを訪問された上皇上皇后両陛下(左)と会話するユーニス・サトウさん
 在職中、ロングビーチはダウンタウン中心部が再開発され、高級ホテルが建設されるなど活気ある地区に変貌する時期を経験した。サトウさんは市中の海岸線に建設された世界貿易センターに日本の鹿島建設が投資したことを誇りにしていたという。
 96年、日本政府は日米関係を促進させた功績でサトウさんに瑞宝小綬章を授与した。
 サトウさんは1921年6月8日、6人きょうだいの1人として生まれ、モデスト近くの小さな町リビングストンの農場で育った。ルーズベルト大統領が42年2月19日に大統領令9066号に署名した後、家族は自発的にコロラドに避難した。兄弟のジョーさんとアートさんは、日系人部隊の第442連隊戦闘団に志願。サトウさんは2人がイタリアの最前線から書き送った手紙を大事に保管していた。
 サトウさんは日系人を快くコロラド州に迎えた当時のラルフ・カー知事に永遠に感謝し続けた。北コロラド大学で学士号と教員資格を取得した後、ニューヨークのコロンビア大学教員学部で修士号を取得した。
着物がよく似合ったサトウさん
 サトウさんはコロンビア大学在学中に書いたエッセーの中で、日本人移民の子であることを振り返った。
 「(日系二世であることを)明らかにする必要はないし、明らかにするように求められてもいないが、私は言う。(二世であることを)恥じてもいないし、結果として障害や差別に直面することを恐れてもいないので。あるコミュニティーが狭すぎて私の文化的背景のために私を受け入れることができないとしても、真の民主主義を信じ言葉だけでなくそれが実際に実行されることを見たいと願う別のコミュニティーがあると確信している」と書いている。
 1948年、サトウさんは横浜の私立学校(現フェリス女学院)で教えるために日本に渡った。米国占領下の日本でマッカーサー司令官の下で働いていた将来の夫トーマス・サトウ氏に会った。家族は56年にカリフォルニアに戻り、サトウさんは3人の子供のPTAや教会でボランティア活動を始め、ロングビーチ教会評議会の会長になった。広範なコミュニティーへの関与を買われて市議会の議席に立候補するように頼まれ、75年から議員となった。
 身長4フィート10インチの小柄な女性だったが、ボランティアや他の人を助けるための無限のエネルギーを持ったダイナモとして多くの人から慕われた。
ロングビーチと姉妹都市の四日市市の関係者と友好を深めるサトウさん(左から2人目)
 ジョージ・デュークメジアン知事によって任命された1990年の自尊心向上特別対策委員会(Self-Esteem Task Force)の26人のメンバーの1人だった。また、91年にジョージH・W・ブッシュ大統領によって教育研究に関する全国諮問評議会に任命された。ロングビーチと姉妹都市の四日市市との友好にも力を注いだ。
 2015年、ロングビーチ統一学区はアジア人で初めての名誉として「the Sato Academy of Mathematics and Science」にサトウさんの名を冠した。
 訃報に際し今週、ロングビーチ評議会の席上で現職のロバート・ガルシア市長は、「サトウさんはコミュニティーに、特に女性やアジア系米国人のために、驚くべき画期的な貢献をした」とサトウさんに敬意を表した。【訳=長井智子】
「the Sato Academy of Mathematics and Science」の開校を祝うロングビーチ統一学区の関係者ら

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