放送が始まってひと月を過ぎた10月6日、リトル東京の中華料理店三光樓で今後の日本語放送のあり方が話し合われた。その結果、体制固めのために法人設立をすることおよび名称を日本文化放送協会に変更することが決定された。放送協会の顧問には帝国領事を筆頭に日本人会会長、邦字新聞社長、日本語学園長、有力商店主がノミネートされた。実際の番組運営は杉町、須々木に加え前田輝男(羅府新報記者)、栗原芳幸(羅府第一学園教師)、田代愛子(ピアニスト)、鬼頭文子、尾座本導、村田五郎(加州毎日新聞記者)、三宅朋之(池田貿易商会)、前野安雄(弁護士)があたった。それまでの日本語番組とは大きく異なる本格的な業務体制が構築された。
同年9月には業界誌のブロードキャスティング誌がこの番組を取り上げた。そこでは、開始時・終了時には英語でリトル東京地区への来訪を呼び掛けていたことや、番組開始後45日間で500台のラジオがリトル東京で売れたことが紹介されている。
番組には多彩な人物が集まり、巣立っていった。初期の英語アナウンスを担当したチャールズ吉井は35年に日本放送協会が海外放送を開始した際の英語主任アナウンサーとなった。ストーリー仕立ての放送劇に出演していた加州毎日新聞記者の村田五郎はジャパン・タイムスの編集長や取締役を歴任した。多数のラジオドラマや講演を担当した加州毎日新聞記者の田辺英二は羅府日系市民会長や南加日系人商議会頭を務めた。ティーブ釜萢(かまやつひろしの父親)は32年10月24日の番組でウクレレとバンジョーによる「セントルイ
このように邦人社会にとって欠かせない放送となったが、アメリカ人社会からは番組に対する抗議文が多数寄せられたという。杉町はこれらの抗議に丁寧な対応を行い、日米開戦直前まで日本語番組は継続して放送された。(日本時間④に続く)
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