昔話とかメルヘンとかの本を読みなおしていて、昔話はいい! と思った。
 グリム童話はグリム兄弟の創作だということは知られているが、彼らは確かに語り手から直に採話はしていない。1812年の「子どもと家庭のメルヒェン集」初版本は初めての聞き書き集だった。この後、改訂版を出すたびに表現が改められて、聴くメルヘンから次第に読むメルヘンに移っていく。日本の昔話も語りじいや語りばあから採話された話が、本になりテレビで放送されるに至って、元の簡潔な話から描写が詳しくなって聞く話から物語になっていく。
 詳しくなると、文学的物語になって昔話ではなくなる。ヨーロッパのメルヘンも昔話も、いくつもの約束事がある。まず「むかし、むかしあるところに…」の発端句から、結末語は地方によって異なるが「めでたし、めでたし」「いちごさかえた」までの間はその世界に入り込んでいること、不思議なことがあっても疑問を挟み込むことは許されない等々、語り手と聞き手の関係があった。話は、簡潔で現象をリアルに語らない。残酷なことも出てくるが、最終的には主人公の幸福に至るプロセスで起こる試練としての事件だということ。
 昔話が本や映像になったとき、簡潔な語り口だと面白みに欠けると元の話が脚色されて、ただ「鬼」となっていたものが、3人5人、角が1本2本、赤青黄の色までついてくる。聞き手がその怖さの状況で想像していたものが、既成のものとなる。教訓話もあるが、畏れを感じる話、不道徳行為や犯罪行為も出てくる。数ある話をきいて、自分なりに想像力をめぐらし考えていく。何でもすぐ映像になって現れて、即反応し合う現代とは違う。
 先日、お寺の本堂で鐘の中にわざわざ紙を入れて火を燃やしていた人がいたという話を聞いた。一見ごく普通の女性が。お寺がどういうところか、灯明は火遊びの火種なのか。自分の力が及ばない場所やものがあるという畏怖や畏敬の念が薄れている。
 自分の興味だけをネットで探すのではなく、直に人の話を聞くことをしてはどうか。付随した話から知らなかった世界があることに気づかされるだろう。【大石克子】

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