車から降りて目の前の土手を超えると思わずあっと息をのんだ。40〜50センチもの厚みを持ったコンクリートの防波堤が折れ、砕けて転がっている。波打ち際には数かぎりない消波ブロックが積まれている。新しいのは津波後に運ばれた。来る途中も幾台もの消波ブロックを積んだトラックとすれ違った。津波後の地元の、唯一の仕事のようだ。
 それにしても津波の強大な破壊力には圧倒された。恐らく寄せ来る波には強いのだろうが、引き波で内側の土砂が崩されてひっくり返されたのだろう。脳裏に改めてあの時の防波堤を乗り越える巨大なうねり、次々に流される船や工場や家々。まるで映画を見ているような悪夢の映像がよみがえる。
 悲惨だったのは津波後に起きた東京電力福島第1原発の事故だった。津波被害により原子炉の冷却装置が故障し、1号機と2号機の水蒸気爆発で大量の放射能が飛び散った。空気中の放射能は風に乗って運ばれ、各地で雨や雪に混じって地上に散った。汚染地区の住民には強制避難命令が出て着の身着のままで各地に移住させられた。
 ニュースは世界に伝えられ、各国から救援の申し出と支援金が届いた。米国は「トモダチ作戦」を発令し、2万4500人の兵士、24隻の船舶、189機の航空機を投入、全米から7億3千万ドルの寄付が寄せられた。このような大災害には各国が共同して対処する大切さと有難さが身に染みた瞬間である。
 政府は復興に全力を傾け巨額の復興予算を組んだ。各自治体も職員を組織して現場に送り、民間人もあらゆる層からボランティアが駆けつけた。その動きは10年後の今も続いている。復興住宅が次々と周辺の自治体に建てられたが、各地へ散りそこで職を得た住民は故郷へは帰れず、被災地の過疎化は進む。
 事故後多発されたのが「想定外」という言葉だった。日本社会には最悪の場合を想定した戦略的思考が足りなかった。温暖化の影響もあり気象が荒れて想定外の大雨や洪水が多発している。政府をはじめ私たちも、生活の隅々まで最悪の場合を想定した総点検を行い、戦略的対処法を考えて活かさねば、死者や被災者達に申し訳がない。【若尾龍彦】

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