6日のSFVJACC主催のファンドレイズイベントで司会をする千葉さん(右)
 サンファナンドバレー日系米国人コミュニティーセンター(SFVJACC)は6日、東日本大震災のバーチャル募金イベント「Remembering Japan’s Earthquake-Tsunami 10 Years Later」を開催する。当日は、Zoomによる特別追悼プログラムが行われ、震災孤児支援のため5千ドルを集めることを目標にしている。イベントでは、東北の被災地、特に宮城県南三陸町の復興状況ほか、南三陸町出身の最知浩一さんの被災した親族の当時の様子や現状を伝える予定だ。

 最知さんによると、10年前の震災当日、おばの道子さんは、夫の元太郎さんや近所の人たちとお茶を飲んでいたという。激しい揺れが収まった後、道子さんたちは津波から逃れるため高台に避難して九死に一生を得たが、元太郎さんは迫りくる津波を撮影しようとして帰らぬ人となった。

東日本大震災で被災した宮城県南三陸町の復興状況を比較する写真。写真上が2011年3月13日、下は今年2月11日撮影
 最知さんは当時を振り返り、こう語っている。「東北で地震と津波が発生したと聞いて、宮城県に住む親族のことを思いとても心配になった。私の父の実家は陸前港駅(南三陸町)のそばにあり、私はよくいとこに『オーシャンビューのリゾート地だ』と冗談を言っていたほどだった。それほど海が目前にあった。子どもの頃、南米で地震が起こり日本に津波警報が出た際は、親族も近所の人も総出で港に向かい、小さな漁船が津波で流されないようにロープで縛っていた。私の親族が経営するノリ工場と家は糠塚山の頂上にあったので津波の心配はないと思ったが、それでも高波の可能性があるかもしれないと工場の窓から眺めていた。結局津波は来ず、すぐに平穏な生活に戻ったことを覚えている」
 震災から10年経ったが、かつての日常が元に戻ることはない。日本史上最大となった未曽有の震災は、約40メートルの津波を引き起こし、1万5899人の死者、6157人の負傷者、そして2529人の行方不明者を出すなど、甚大な被害をもたらした。最知さんは、津波のことを聞いた時、南米の地震の時のように家族が糠塚山に避難してくれることを期待していた。しかし、難を逃れることができたのは、もっと高台にある神社に避難していた人々だけだった。糠塚山は津波に飲み込まれ、そこに避難しようとしていた人たちは、今も行方不明だという。それから約1カ月後に、最知さんの親族5人が亡くなったことが確認されている。そして、最知さんの父の実家はもちろんのこと、同じ敷地にあったノリ工場や雑貨店も全壊。さらに2家族が家を失い、ほかにも家屋被害や事業に大きな損害を受けた親族がいたそうだ。
 SFVJACCは、震災を風化させないためにさまざまな取り組みを行っており、これまで2度にわたる復興募金活動を行い、総額10万ドル以上の支援金を集めている。
 6日のファンドレイズイベント「Remembering Japan’s Earthquake-Tsunami 10 Years Later」は千葉公明さんとナンシー・オダさんの司会で午後5時から始まる。
 申し込みと問い合わせは、千葉さんまで。メール—
 events@sfvjacc.com
 募金方法は、ペイパル口座を用い、SFVJACCウェブサイト(www.paypal.com/donate?hosted_button_id=7VQWGJQCCQZSQ)のドロップダウンリストから「Japan Earthquake-Tsunami Relief」を選択。またはチェック(宛名SFVJACC、送り先12953 Branford St., Pacoima 91331)を郵送する。 【訳=砂岡泉】

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