2022年5月に開館30周年を迎える全米日系人博物館(Japanese American National Museum)

 第二次世界大戦中の日系人の強制収容は、二世のミツエ・エンドウ訴訟によって終わりを迎えた。1944年12月、連邦最高裁は「忠誠な市民の身体を拘束しておくことは憲法違反である」と、エンドウに対する勝訴判決を下したのである。そしてこの判決が出る直前、軍部は「忠誠な市民」に対する西海岸からの立ち退き命令を解除し、戦時転住局が運営していた全米10カ所の強制収容所は1945年から46年にかけて全て閉鎖されていくこととなった。
 収容所が閉鎖されたからといって、そこで全てが元通りになったわけではない。自由も尊厳もプライバシーも奪われた収容所から出たからといっても。立ち退き・収容の際に家やビジネスなどを手放さざるを得なかった人々には帰る場所もなく、また戦前からの差別的な法律や習慣、偏見もそのまま、もしくは戦争の間にさらにひどくなった形で残っていた。何より自らの国もしくは第二の祖国による裏切りの経験のトラウマはその後、世代を超えて残っていくことになる。

1946年、カリフォルニア州バーバンクのトレーラーパーク。収容所を出ても帰る家がなかった人々は、こうした場所から生活を再出発させた(Japanese American National Museum, gift of Ronnie Macias and Raey Hirata)

 申請した行き先への片道切符と25ドルを渡されて収容所から出た人々の多くは、再び仕事を見つけ、家を見つけ、コミュニティーを作り直していったのである。この戦後の再建の日々に大半の一世、二世らが収容の過去を話すことはほとんどなかったという。そのため、戦中戦後生まれの三世が、収容のことを理解するのは60年代後半、しばしば大学に進学してからであった。
 日系人の多くは戦後いち早く生活を立て直し、教育水準は高く、犯罪率も低く、世帯所得中間値も高くなり、1960年代には「モデル・マイノリティー」というステレオタイプが生まれるようになる。このモデル・マイノリティーという言葉は、一見、日系コミュニティーの我慢強さや頑張りに対する称賛のように映る。しかし、このステレオタイプは「戦時中の差別にもかかわらず、黙って文句も言わずに働き、家族を大切にし、いまや非常に成功している」と日系人を「良い模範的なマイノリティー」と持ち上げることで、人種差別を克服するのに必要なものはあたかも「家族の絆」であり「黙って働くこと」であるかのように描くものだった。それによって、公民権運動などにおいて差別的な社会構造や差別的な法律の変革を求める黒人やラテン系を、まるで努力が足りない「悪いマイノリティー」であるかのようにおとしめ、彼ら自身に人種差別の責任を押し付ける役割を果たした。
 今、このモデル・マイノリティー神話は日系だけでなくアジア系全体に使われるものになっているが、社会的、経済的、文化的、政治的にも差異のあるアジア系コミュニティーの実態にそぐわないどころか、コミュニティー内の貧困や暴力、英語の読み書きの不自由さなどの課題や問題を覆い隠し、適切な支援を得ることを難しくさせる。さらにこの神話はステレオタイプを押し付けられたコミュニティーを、「彼らだけが成功している」と、人種差別から起きる不公正に対する怒りや不満のスケープゴートにする。本来その怒りが向かうべき先は人種差別的な社会構造であるべきだが、モデル・マイノリティー神話はマイノリティー同士を分断して対立を生み、そして実際の問題である人種差別から目をそらさせるのである。

強制収容の歴史の「発見」

 しかしながら、この分断のステレオタイプが描く像とは異なる日系人の歴史もある。1960年代、三世らを中心にほかのマイノリティーとの連帯を希求する動きが生まれたのである。公民権運動、続くブラックパワー運動、ベトナム反戦運動、そしてヨーロッパ中心主義のアメリカ史ではなく多様なアメリカの歴史を学ぶエスニック・スタディーズの大学教育課程設立を求める運動が起き、同じ有色人種として日系人らもそれらの闘いに加わっていく。その中から「アジア系米国人」という連帯の名称とアイデンティティーが誕生する。
 1968年、日系二世のユウジ・イチオカがエマ・ジーと共に、「アジア系米国人政治同盟」を設立。それまで個別のルーツの国の名や「オリエンタル(東洋人)」とまるで外国人のように呼ばれていたアジアをルーツに持つ米国人の若者たちが、この名前を通して連帯し、共に米国人としての自らの政治的立場や権利を主張し始めたのである。
 日本で生まれ育ち、アジア圏における国々の利害関係を間近で見てきた場合、出身国ナショナリズムも相まって、アジア系米国人という概念は急には理解しづらいかもしれない。このアジア系米国人とは国籍やルーツによるアイデンティティーのように与えられたものではなく、むしろ意識的に選び取ったアイデンティティーであると言っていい。連帯によって数の力を得て、政治を、社会を動かしていくことができる。だからといって彼らが日系米国人や中国系米国人のアイデンティティーを捨てたわけではなく、複数のアイデンティティーがそれぞれの中に存在しうるのである。
 そしてアジア系、黒人、ラテン系らによる長いストライキの後、サンフランシスコ州立大学、UCバークレー、UCLAにアジア系米国人研究などエスニック・スタディーズの課程が設置されることとなった。三世らはこうしたエスニック・スタディーズのクラスで、自分たちの親や祖父母に起きた強制収容の歴史を知るのである。
 またこの強制収容の歴史の発見は、自分たちの過去としてだけではなく、現代的な問題としても切迫感を持った。公民権運動そしてベトナム反戦運動の高まりの中で、黒人指導者らの勾留のうわさが広まり、マッカーシズムの中で制定された「1950年国内治安維持法」が再注目されたのである。同法の第二項は「スパイ行為やサボタージュ行為を行う、またはその陰謀を企てる恐れのある人物」を司法長官が拘置所に送ることを認めており、この緊急時勾留法の下に設置された拘置所の一つはかつて日系人らが強制収容されたツールレイク収容所だった。強制収容の経験者として収容所復活を阻止しようと、プログレッシブな二世らを中心に三世も巻き込んで、いまだ有効であったこの第二項に対して廃棄運動が展開される。この運動の過程で二世アクティビストらが強制収容について語り始めたのである。

1960年代半ば、ニューヨークのハーレムでの集会で話す日系四世のウォーレン・フルタニ氏(Japanese American National Museum, gift of Warren Furutani)

 1969年12月にウォーレン・フルタニやビクター・シバタら三世、四世らが中心になって行ったマンザナー巡礼の目的の一つは、この第二項廃棄の教育でもあった。日系人の強制収容は、もし自分たちのルーツの国とアメリカが戦争をした時に、そのルーツを持つ人々に何が起きるのか、その第二項の収容所とはどういう場所かということのこれ以上ない具体例であった。第二項はダニエル・イノウエ上院議員によって廃棄を求める法案が提出され、1971年にリチャード・ニクソン大統領が署名して廃棄が成立している。
 こうして自らの米国人としてのアイデンティティーを形成し、歴史に触れていく中で、三世らは自らの親や祖父母が経験した強制収容の歴史を、現在の不公正につながる歴史として理解し始めたのである。

リドレス運動と全米日系人博物館

 過ちを正すことを意味する「リドレス(Redress)」運動がこの頃から始まっていく。第二次世界大戦中の日系人の強制立ち退き・収容を過ちであったと連邦政府に認めさせ、謝罪と補償を求める運動であった。
 1981年、連邦政府に戦時市民の転住・収容に関する委員会が発足する。そして委員会は、その強制立ち退き・収容の実態を調査すべく、翌1981年に全米10カ所で公聴会を開催。当初は収容経験を話すことをためらっていた一世や二世らも含め750人以上が証言を行った。この時に自らの収容の経験を初めて公に話す人も多く、日系コミュニティーはこの公聴会を通して、自分たちの失われかけていた過去を取り戻していったのだった。

ワシントンDCの米国議会議事堂前で撮影した「リドレス・補償のための全国連合」の集合写真(Japanese American National Museum, gift of Janice Iwanaga Yen)

 同委員会は1982年から83年にかけて調査結果を発表し、戦時中の強制立ち退き・収容は軍事的必要性があったものではなく、人種差別、戦時下のヒステリー、政治指導者の失政によって起きたものだと結論づけ、補償金の支払いを勧告した。
 そして1988年8月10日、「市民の自由法」が成立する。これは委員会の勧告を受け入れたもので、第二次世界大戦中の強制立ち退き・収容は過ちであったと連邦政府が正式に認め、謝罪し、この時点で生存していた元の強制立ち退き・収容者1人当たりに2万ドルの補償金が支払われ、また強制収容の歴史を伝えていくための教育基金が設置されることになった。誰もが不可能だと考えたリドレスがついに実現したのは、収容からおよそ45年近くが経った後のことだった。
 その4年後の1992年5月、ロサンゼルスのリトル東京に全米日系人博物館が開館する。コミュニティーの人々が中心となって1985年に非営利組織として設立し、開館のための資金を集め、歴史的資料を収集して、自ら歴史を記録していったのである。そのミッションは「日系米国人の歴史を記録し、伝えることにより、米国の民族的および文化的多様性への理解と社会的認識を深めること」。自分たちの歴史が失われないように、そして自分たちが経験したような差別の歴史が二度と繰り返されないようにと、その歴史を米国の歴史の不可欠な一部として伝えようとしたのである。
 まもなく開館30年を迎えるこの全米日系人博物館で展示している歴史は、至極当然のように存在すると見えかもしれない。しかし日系人強制収容の歴史を語り直してきた人々、エスニック・スタディーズを設立して研究と教育を進めてきた人々、博物館が位置するリトル東京が失われないように奔走してきた人々、リドレスを実現させた人々、それらを支えてきた数多くの一人一人がいて初めて存在している。マイノリティーの歴史は残そう語ろう学ぼうとする人がいなければ、いとも簡単に失われてしまう。
 また、強制収容や苛烈(かれつ)な人種差別など戦前の移民から始まる日系米国人の歴史は、戦後の移民や米国長期滞在者にとっては直接関係のない歴史だと思うかもしれない。しかし、こうした私たちより前にこの国で生きてきた人々の闘いが、多様性を理想とし、公正さを保障する法を持った社会を作ってきた。私たちが今立っている場所は、その歴史が築いてきた土台の上にある。
 そして皮肉なことに自分たちとは関係のない歴史だと思っても、「永遠のよそ者」や「モデル・マイノリティー」といったステレオタイプは私たちにも押し付けられている。しかし、そうしたステレオタイプの来歴を知り、それらとの闘いの歴史を学ぶことで、ステレオタイプの圧力や内面化の誘惑とどう向き合っていくべきかが見えてくる。歴史を知ることは、私たち自身を知ることでもある。
 全米日系人博物館の常設展示のタイトルは「コモン・グラウンド:コミュニティーの心」であり、その展示の最後にはこう記されている。「私たち一人一人に、全ての人の自由と公正を守る責任があります。これが私たちの約束です。これが私たちのコモン・グラウンド(共通の基盤)です」。当たり前に存在しているように見える歴史も、公正さも、多様性も、民主主義も、一人一人が学び、参加し続けていくことでしか持続されない。一人一人の力の集積が歴史であり、現在であり、一人一人が力を合わせていくことでこれからの未来が形作られていく。(終わり)

1992年5月15日、JANMは一般に開館した。左からLA市議会議員リタ・ウォルター氏、JANMアイリーン・ヒラノ館長、JANMトラスティーのヘンリー・オオタ氏(肩書きは全て当時)(Japanese American National Museum)

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