木曜随想

2020年2月に亡くなられた野本一平さんを追悼し、サンフランシスコで発行されていた月刊誌「もん」に発表した「詩片季語」を木曜随想に連載します。

【野本一平】人間、無為徒食をして、長生きしても一生だし、短い二十数年を、火の玉のように燃えつきても一生だ。

 長寿はめでたいというが、短くとも、充実した生活には、めくるめくような魅力がある。

君は行く暗く明るき大空の

だんだらの

薄明りこもれる二月

曲玉の一つらのかざられし

美しき空に雪ふりしきる頃なれど

昼故に消えてわかたず

かし原の泣沢女(なきさわめ)さへ

その銀の涙を惜み

百姓は酒どのの

幽なる明りを慕ふ

たそがれか日のただ中か

君はゆく大空の物凄きだんだらの薄明り

前を見つつ共に行くわれのたのしさ。

 大正12年(1923年)7月、中国大陸の放浪から一時帰国していた、草野心平は、書店の本棚に、「槐多の歌へる」を手にとり、この「二月」という詩に大きなショックを受けたという。

 村山槐多の17歳の作品である。

 のちに詩人として立った草野心平だが、その時点で、藤村も啄木も、そして白秋も読んだことがなかった。まして光太郎や朔太郎の名さえ知らなかった。

 その彼の面前に、屹立したはじめての詩人が槐多だった。

 明と暗のだんだらの二月の大空にひろごる情念の行方を思う時、早熟な槐多の耽美は、短い生命の中で、あまりにも多彩である。

 同時代の詩人たちは、みなこの詩に魅せられたというが、その言葉の選びと、スタイルは斬新だったのだろう。その才は、まさしく天成のもののごとくである。

 2月という月は、アメリカの暦では、しかるべき大統領の生まれた月ということで、人々に記憶されているに過ぎない。

 季節としては、新年を迎えた1月の新鮮さもなく、草木の芽ぶく弥生3月の感激も無い。槐多は「薄明りこもれる二月」と表現したが、「薄明」ととらえた詩人の感覚を、私は一応肯定しておこう。

 槐多は明治29年(1896年)横浜で生れ、のち京都で成長した。14歳から絵を描きはじめ、18歳にして第1回の二科展に、4点出品、その1点が日本美術院の横山大観に買い取られた。

 その翌年、日本美術院展に「カンナと少女」を出品、院賞を受けた。その翌々年、再び院賞を受け、日本美術院院友に推挙されている。21歳の時である。まことに華麗にして、早熟の才能のデビューである。大正8年(1819年)の2月、22歳と5カ月の生涯を閉じるまで、結核性肺炎の病躯の中で、火だるまのように絵を描き、詩作し果てた。

 高村光太郎に「村山槐多」という詩がある。すぐれた一人の詩人が、もう一人の若い特偉な詩人を、すばやくデッサンし終えた、その迫り方のするどさ。

槐多は下駄でがたがた上がって来た。

又がたがた下駄をぬぐと、

今度はまっ赤な裸足(はだし)で上がって来た。

風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしゃの紙を出した。

黒チョオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。

五臓六勝に脳細胞を遍在させた槐多。

強くて悲しい火だるま槐多。

無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」

「居るよ。」

「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかった画かきの槐多よ。

自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。

 これは高村光太郎の槐多へのレクイエムである。「強くて悲しい火だるま槐多」と光太郎はいう。22年と5カ月の短い人生の時を、火だるまのように、火炎をふりまきながら、すばやく通り過ぎて行った、不思議な「いのち」への共感と、惜別がここにある。

 「生命を燃やす」という、いいふるされたこのことばを、慢然とここに持ち出したくはない。特に槐多の「五臓六騎に脳細胞を遍在」させた生き方を見ると、生命とは何か、芸術とは何かということを、新しい言葉をえらびつつ、語らねばならないと思う。

 詩人も、画家も、音楽家も、みな利口な生活者になり、今ふうの政治の理念のもとで風化しはじめている時、あらためて槐多のような存在を、きびしい一つの踏み絵にしたい。

 槐多はガランス(朱赤色)が好きで、ガランスを作品の中にあざやかに使いまくった。まるで槐多の血をしぼり出すように、槐多はいう。

ためらふな 恥ぢるな

まっすぐにゆけ

汝のガランスのチューブをとって

汝のパレットに直角に突き出し

まっすぐしぼれ

 と、薄明りこもれる2月の空も木も、ガランスに塗ってしまえと槐多は叫ぶ。2月はまさしく槐多のはげしい絵の前に立ち、あらためておのが生命の色を、見定めなければならぬ月なのである。

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