ボイルハイツの老舗レストランお冨さん。子どもから大人まで家族で気軽に飲食でき人気がある

 ロサンゼルス市議会は1月12日、ボイルハイツにあるニシヤマ邸/お冨さん食堂の歴史文化記念建造物指定を承認した。ロサンゼルスの歴的建造物を保護する団体の「Los Angeles Conservancy」が発表した。
 東1街2504〜2508番地に建つ物件は1・5階建てのクイーンアン様式の居住部分と1階建ての店舗部分で構成され、ボイルハイツに住んだ初期の日系米国人移民の生活や1920年代に東1街を走っていた路面電車の路線に沿って発展した当時の商業を探る上で重要な史跡である。

お冨さんを取材で訪れたリサ・リン(前列左)をもてなすオーナーの渡辺弥生さん(右)。後列は渡辺さんの娘で店を手伝う林奈緒さん(左)とローランド・クルーズさん

 現在渡辺弥生さんが所有する「お冨さん」は、市内で最も古くから営業している日本食レストランであると考えられている。HBO・Maxの新番組で、アジア系米国人が経営するレストランを食べ歩く「リサ・リンと一緒にテイクアウト」に出演するリサ・リンさんも最近、そのようにソーシャルメディアに投稿した。
 Los Angeles Conservancyがボイルハイツ・コミュニティー・パートナーズと共同でこの物件の史跡指定推薦を提出したのは2020年5月。市の文化遺産委員会は同年11月5日に指定検討を決議し、さらに21年8月5日に全会一致で指定推奨を決議し、次の段階に進んだ。
 市議会から最終承認を得るための指名は当初、同年10月19日に市議会の「Planning and Land Use Management (PLUM) Committee」で得られる予定だったが、定足数不足により会議が開催されなかったため、PLUM委員会による指名勧告は12月7日まで待たねばならなかった。

1950年代に撮影された、ニシヤマ家のマイク、トミエ夫妻、子どもたちと親族が写った家族写真(提供=リンダ・カネコ)

 Los Angeles Conservancyは「共同申請者のボイルハイツ・コミュニティー・パートナーズと、この推薦を支援してくれた全ての人に感謝する」と述べ、「ぜひ皆さんもお冨さん食堂に出掛けて一緒に祝福を」と、呼び掛けている。
 この東1街2508番地の邸宅は元々ボイルハイツの開発初期の最盛期にアンナ・E・リトルボーイ夫人のために建てられたと考えられている。リョウヘイ・ニシヤマが所有者であったことを示す最も古い記録は1924年の建造物許可に見られる。
 ニシヤマは、マシュー通りとフィケット通りの間の東1街沿いに居た少なくとも4人の不動産所有者の1人だった。彼らは20年代に彼らの不動産を増築し、商業的要素を追加した。
 2506番地の最初のテナントはマサオ・サトウだったと考えられている。26年から29年にかけて、サトウ家はこの場所で食料品店を経営していた。
 29年に、1部屋の商用部分に間仕切りが追加され、2504番地として理髪師タネゾウ・マスナガにスペースが提供された。食料品店と理髪店は50年代初頭まで経営が続けられていた。
 アオキと名乗る夫妻がニシヤマ邸にヨシン学園を開校し、週2回、月額2ドルの夜学を提供していたこともある。39年、アオキ夫妻は羅府新報に広告を掲載し、読者に「障害にならないように、実用的な日本語とエチケットを習得することは、社会生活とビジネスにおいて必要不可欠だ」と訴えている。
41年12月7日の真珠湾攻撃は、ニシヤマ家を含むボイルハイツの日本人と日系米国人の生活を劇的に変えた。42年2月19日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は大統領令9066号に署名。これにより、日系の人々は一時的な集合センターに強制的に集められ、その後に戦時転住局(War Relocation Authority)が運営する10カ所の収容所の一つに移送された。

歴史文化記念建造物に指定されたレストランの前に集まった、最初の経営者だったセト夫妻の子孫や親族ら。店は今でも50年以上前の当時の雰囲気を伝えている

 41年と42年の市の名簿は、ニシヤマが2506番地に所有していた食料品店をマックス・ゴードンという人物に賃貸したことを示しているが、建物全体を貸与したのかどうかは明らかではない。
 ニシヤマ家は当初42年7月から43年10月までアリゾナ州のギラ・リバー収容キャンプに収容されたが、43年に忠誠心の質問が行われた後は、「不誠実」と不当に分類された他の収容者とともに北カリフォルニアのモドック郡にあるツールレーク隔離センターに送られた。45年11月から46年3月にかけて、ニシヤマ家の人々はツールレークから解放された。戦時転住所の最終名簿によると、ニシヤマは解放後にロサンゼルスに向かったとされている。
 46年12月、羅府新報は、2万5千人の日系米国人がロサンゼルスに再定住し、深刻な住宅不足に直面していると報道している。帰還した中には彼らが残した財産が破壊されたり燃やされたりしたと知った人々がいた。また、戦争前に彼らの財産を売却した他の人々には戻る場所がなかった。地元の教会や市民団体によってホステルやその他の避難所が設立され、生活の立て直しを始める帰還者が住む場所を提供していた。そんな時代の中、ニシヤマ家が戦時中に不動産を保持できたのは幸運だった。
 解放後、家族はボイルハイツの住居に戻り、60年代後半までそこに住んでいた。やがて、ニシヤマは、東1街2504〜2506½番地に3番目の店先を作るなど建物を改築し、マスナガ理髪店、ケンゾウ・カイ・アカボシが経営するボイルハイツ花店、イナバ食料品店が入居した。

「お冨さん」の前身「おても」の当時の看板。副作用のない胃腸薬1ドルの文字もある

 50年代初頭の内装の改修により、東端の店先の食料品店がレストランのテナントに道を譲った。おても・すし・カフェ(現在のお冨さん食堂)は、56年に2506½番地にオープンした。
 50年代、おても・すし・カフェから2ブロック離れた東3街2520番地で育ったというペイジー・ダンカンさんは、家族がリバーサイドの親戚に持っていくおみやげとしてすしを買うために、店まで歩いて行ったことを覚えているという。当時、店では週末にグリフィスパークやエリシアンパークなどで開催される県人会の集まりのために何百もの弁当を作っていたという。
 当時を知るアルフレッド・ツユキ師は、「昔はかなり忙しかったので、人々が列を作って店の前で入店を待っているのを見たものだ」と言う。
 70年代初頭、おても・すし・カフェを経営していたセト家は事業をアキラとトミのセイノ夫妻に売却した。セイノ家は店名を「お冨さん」に変更した。79年に「お冨さん」と店名を記した電気看板設置看板が設置されたが、長年の住人らによると、お冨さんはおても・すし・カフェの時代からほとんど変わっていず、歴史を伝えているという。

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