第二次世界大戦の最中、大阪は天王寺駅発で和歌山を通って伊勢に向かう紀勢線の列車の中は、米軍の爆撃を避けて疎開する家族、大きなリュックを背負いヤミ米の買い出しをする人たちなどで混み合い、人々は何とか列車の中に乗り込もうと、デッキも人が鈴なりの状態だった。
 駅員に乗車を止められ列車から降ろされた多くの乗客を残して、大きく汽笛を鳴らした列車が、やっと蒸気をあげて発車、大阪近郊の町を抜けて海岸沿いの路線を走りだした。
 南紀は北海道や東北と違い温暖な気候に恵まれているとはいえ、冬はやはり寒く、列車の窓ガラスは割れたまま、あるいは窓から乗車下車をする人が頻繁で閉まらなくなった窓もあり、寒風が容赦なく吹き込んでくるが、本数の少なくなった列車に乗れたことを幸いとして、お互い身体をすくめながらも文句を言う人はいない。
 紀勢線は山が多く、その数だけトンネルも多い。列車がトンネルに入るたびに窓からは風と共に真っ黒なすすが吹き込んでくる。そんな列車の中で、モンペ姿の女性が2~3歳の女の子をショールで包み膝に抱き、トンネルに入るたびにハンカチで子どもの顔を覆いながら寒さに耐えていた。
 その時母娘の近くの通路に立っていた学生が、黒い詰襟の学生服を脱いで女児の上に掛けた。
 一瞬驚いた母親が見上げると、「僕は大丈夫ですから」と学生は笑顔でうなずいた。
 思いがけず出会った見も知らぬ学生の親切に、母親の眼に涙があふれ、「ありがとうございます」と両手を合わせて思わず学生を拝んでいた。
 その女性は3歳の私を連れて故郷に疎開する77年前の私の母親だった。
 「あの時は、あの学生さんが神様に見えたよ。あの混雑の中で、名前も聞かずに別れたけれど、いつもどうぞ徴兵なんかされずに元気で終戦を迎えていてくださいって祈っていたのよ」
 生前、母は戦時中の話になると、涙を浮かべながら何度もその思い出を話してくれた。
 今、テレビの画面に、戦禍のウクライナを逃れ、子どもや老人を連れて隣国ポーランドに向かう人々の群れを見ながら、その恐怖や苦しみを、自分のこととして受け止めている。(川口加代子)

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