Eメールという便利なものが普及して、手紙を書くことも受け取ることも少なくなった。郵便受けに入っている物といえば、ジャンクメールくらいだ。そんなある日、古い友人からの一通の手紙を読んだ。
名古屋に住んでいた1980年代、バイト先のレンタルレコード店によく来てくれて、お互い好きなヘビーメタルの話をしたり、コンサートで顔を合わせたりした懐かしい友達だ。「海外に出ないとダメよ!」とバンド活動をしている時も応援してくれた。
やがて彼女は語学留学でサンフランシスコへ渡り、僕が89年5月初めて米大陸に上陸した時、ホームステイ先のホストファミリーに頼んでくれて泊めてくれたこともある。彼女とは旅先のロサンゼルスやニューヨークでも再会した。
その後、彼女は結婚し男の子を産み、日本に住み始めた。僕はニューヨークに拠点を移しバンド活動に明け暮れた。手紙には、入院こそしていないものの、最近は体調が悪く、薬を飲んでなんとか乗り切っている。体調が戻って育児が落ち着いたら、復帰して好きなロックを楽しみたい、と書いてあった。
実は、この手紙は95年12月18日に届いたものだ。手紙は押入れにしまってあった手紙の山の中から出てきたもので、26年半の月日が経過している。彼女はその後、体調が良くなることなく他界した。彼女からの手紙は他にもある。息子さんも30歳になっているはずだ。今は亡き友人との思い出はどれだけ時間が経っても変わっていない。
世界は止まることなく時間とともに変化している。われわれは今を生きていて、過去と現在を時間という観念で切り離して考えているが、今回の手紙を読み返して、過去と現在の自分に時間の隔たりは全くないと感じた。であれば、現在の自分は未来を生きていることになる。
彼女の家族と連絡が取れるかどうかも分からないが、なぜか、この手紙を息子さんに届けたいという気持ちが芽生えている。母の温もりを十分に感じる前に死別してしまった彼に、お母さんの声を伝えてあげたい。生まれて初めて郵便配達人になりたいと思った。(河野 洋)